2005年07月24日

ラブ・フォーティ 第9話 〜JR〜

(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )

第8話より続く

 気がつくと新田は市ヶ谷駅に降りたっていた。
 JR市ヶ谷駅のホームからは、かつての江戸城の外濠(そとぼり)の名残りを足もとに見おろすことができる。線路に沿って幅7〜80メートルの濠が長さ約1.5キロメートルほどつづき、その端は隣の飯田橋駅近くにまで及んでいる。濠は3つに分かれており、市ヶ谷寄りから“1番ぼり”─“2番ぼり”─“3番ぼり”と呼ばれている。

 30代の前半、新田は営業2課に属し、商用で市ヶ谷へよく来ていた。
 営業3課に移ってからはまったく縁がなくなり、はや5年が過ぎていた。
 懐かしかった。
 懐かしかったが、最初から懐かしさを求めてここに足を運んだのかどうか、新田自身にもよくわからなかった。ほとんど衝動的に会社を出てしまい、どこへ行くでもなく、かといって帰宅するには早すぎる時間をもてあましているうちに、気がついたらここに来ていた。
 新田は駅をあとにし、市ケ谷橋を渡って外堀通りへ出た。通りは濠に沿って伸びている。つまりJR線と外堀通りが濠を挟み、ほぼ平行して走っていることになる。

 濠に広がる濁りきった水を右に見ながら、新田は外堀通りを飯田橋方向にとぼとぼと歩いた。梅雨どきの湿った熱気が、濠から立ちのぼる汚水の臭いをはらみ、新田の鼻に絡みついてくる。額にじわじわと浮いてくる汗を、ときおりうるさそうに手の甲でぬぐった。懐かしさはにわかに失せ、徒労感に変わりはじめていた。
 3番ぼりにさしかかったところで新田は柵を越え、急斜面をくだって水際に寄った。腰をおろすと、水が近くなったぶん悪臭はさらに濃厚になった。新田は顔をゆがめるが、そこから逃げだす気力はなかった。

 汚濁した水面を上から覗きこみながら、新田はわが身の破滅を想像してみた。ちょうどこの汚水の底にはまりこんでもがき苦しむように、自分の人生がついえるのではないか、と。ほんの1時間前のあの事件から、すでにそれは始まっているのではないか、と。
 ぞっとした。
 いきなり声を張りあげた。
「ふざけるな!」
 前方はるか遠くを電車が横切り、そしてすぐ目の前は人気(ひとけ)のない濠、背後は4車線の外堀通りが車の喧噪を左右させている。新田の悲鳴は誰の耳にも届かず散っていった。
 さらに一声した。
「早川……、くそっ!」
 吐きだすと、しぼむように気持ちが静まった。

 日下部の言葉を思いだした。
“早川久美のいちばん恐ろしい点は、彼女には事実はあるけど真実というものがないことよ”
 意味はよくわからなかったが、新田はその言葉に無気味さを覚えた。早川久美という人間に関わったことで、自分はいま、とんでもない世界に迷いこんでしまったような気がしていた。
 事実はあるが、真実はない……。
 事実と真実は、どう違うのだろうか。
 新田はうつうつと考えた。
 答えが見つからぬまま時が過ぎ、日が傾きはじめた。

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