2005年07月24日

ラブ・フォーティ 第30話 〜スパイ〜

(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )

第29話より続く

「食品研究部へ?」
「そう」
「しかし、僕には専門知識がないよ」
「とりあえず専門知識は必要なし。新田ちゃんには、ほかにやってもらいたいことがあるの。じつはね……」日下部はそう言いながら、新田の耳もとへ顔を近づけた。「来年早々、食品研究部が食品研究所になるの。つまり、本社から独立するわけ。引っ越し。知ってた?」
「いや、まったく」
「そうでしょうね。極秘裡に進められているからね」
「“極秘裡”? どうして?」

 日下部はいっそう声をひそめた。
「じつは去年の暮れごろから、うちの部の研究事項が大量に外部へ漏れていることが判明したの。内偵した結果、研究員の犯行ではなくて、社内の別のセクションにいる者の仕業であることがわかったの。いまはその人間の周辺調査をしていて、証拠固めができしだい解雇処分ということになるはず。上のほうはこれを教訓に今後のことも考えて、人の出入りの激しい本社ビルから研究部を独立させて機密保持を高めようということになったわけ。でも、このことがいまの段階で公になってしまうと、そのスパイも警戒してしまってシッポを出さなくなるから、極秘裡に進められているわけね」
 
「そんなことが起こっているなんて、まったく知らなかった」
「年内中にスパイを掃除して、来年早々には“食研”は引っ越しよ」
「で、僕は?」
「いまのところは雑務程度のことしかないんだけど、研究所へ格上げになったら、食研の独立的な運営を担当してほしいの。いわば事務局のようなものかしら」
「しかし、そんな大切なこと、たとえ日下部さんでも一存では……」

「ねえ、私の一存でこんなことを話していると思う? さっき部長と掛け合ったの。ねえ、新田ちゃん。あなた、自分の社内的信頼を見くびっちゃダメよ。部長が“新田君のことならよく知っているから大いに歓迎する”って。うちの部長はいわば学者さんだから、そういうところが職人気質っていうか、政治ぬきの、人間本意の人なのね。それで部長はすぐに春日専務のところへ行って指示を仰いでくれたの。専務が“私が責任を持とう”と言ってくれたそうよ。それで、研究部に新田ちゃんの受け入れ態勢ができたわけ。来年になれば本社とも別れることだし、あの忌ま忌ましい女の顔を見なくてもすむようになるし。どう? ……あら、新田ちゃん、どうしたの? やだ、大の男が涙なんか浮かべたりして……」

「申し訳ない。なんか嬉しくて……。いろいろなことがありすぎて涙腺が弱くなっちゃったよ」
 そう言いながら目頭をこすりあげる新田を、日下部はしばらくそっと見守っていた。
 突然、日下部がクスクス笑いはじめた。
「新宿のスタンドカフェの片隅で、いい歳した女と男がこうしていると、まるで、歌舞伎町あたりのやり手のママと、気弱な中年サラリーマンのドロドロに見えるんじゃないかしら。私が別れ話をして、新田ちゃんがさめざめ泣いているわけ」
 新田は目を赤らめたまま笑った。胸の中がすっと軽くなるのを感じた。

 ふたりは新宿で別れた。新田はこれから社に戻り、神岡営業部長に食品研究部行きを希望する旨を伝えなければならない。日下部は外での打ち合わせが残っていた。
 別れぎわに日下部が聞いた。
「新田ちゃん、会社を辞めようとは思わなかったの?」
 新田は伏し目がちにうなずいた。
「考えたよ」
 そう答える新田の表情が気になって、日下部はさらに聞いた。
「いまは?」
 すると新田は答えず、笑いながら手を振ると、改札口へ消えていってしまった。

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