2005年07月24日

ラブ・フォーティ 第32話 〜エプロン〜

(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )

第31話より続く

 異動に関して、新田は妻の晴美に、食品研究部の独立にともなう新セクションを急きょまかされることになったと説明した。早川久美の件はすべて伏せておいた。
 夫の突然の異動をリストラではないかと気をもむ妻は多いが、晴美の場合はそういう素振りを示すことがまるでなく、むしろ、新田が早く帰るようになったことを素直に喜んでいるようにさえ見えた。ただ、晴美の本当の気持ちがどのようなものであるか、新田にはよくわからなかった。新田は、晴美の真意を確かめてみたいと思う反面、早川の件を隠しているだけに、今回のことはうかつに話題にしないほうがいいとも思うのだった。

 新田は晴美の様子をうかがいながら、考えを巡らせた。異動に関してさほど驚いたふうでもない晴美は、のんきなのだろうか、それとも、ものに動じない性格なのだろうか、あるいは、この僕に気をつかわせまいとしてわざと平静を装っているのだろうか……。新田はそんなことを考えているうちに、ふとあることに気づいた。12年も一緒に暮らしてきたのに、僕は自分の妻のことを意外と知らないのかもしれない。こんな事件でも起こらないかぎり、僕は晴美にしっかり目を向けてみることなどなかったのかもしれない、と。新田は心の中で寒々しく苦笑するのだった。

 結局、異動にまつわることはそれ以上お互いに口にすることもないままに、新田にとって“新生活”とでも呼ぶべきものが少しずつ根を下ろしていった。家族と過ごす時間が増えるにしたがって、新田は自分がいかに家の中の出来事に無知であるかを思い知らされるようになった。たとえば、料理のさいに妻が愛用しているエプロンのひとつは、とても古く、それもそのはずで、彼女が新婚時代から大切に使っているものだということを12年目にして初めて気がついた。娘の理沙が、子供用の椅子から、大人と同じ椅子で食事をするようになったのがいつだったかも、まったく自覚がなかった。万事がそんな調子だった。

 新田は自分の無知を埋めるためにも、家族との時間を少しでも増やそうと思うようになっていた。いままでなら決して早く帰ることのなかった週末も、早々と帰宅するようになった。
 その夜も、新田は妻と娘と夕食を囲んでいた。「飲みが足りないんじゃないの?」と娘にからかわれ、物思いからふと我に返ってみると、テーブルの向こう側で妻と娘が並んでくすくす笑っていた。

続き(第33話)を読む

人気blogランキングに参加しています