2005年07月24日

ラブ・フォーティ 第38話 〜スナップ〜

(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )

第37話より続く

 男は体を転じ、右肩先をボールのほうへ向け、ラケットをテイクバックした。バックハンドストローク。その第一打がぶれた。打ちそこねた。ボールが揺らいで失速したぶん、壁に当たってからの飛球線はひどく下降した。男は反射的にダッシュして前に詰め寄り、ラケットをボールの低落下点へ突き出した。ボールがガット面に触れるや男はバネのように手首をきかせ打ち返した。ボールはあらためて加速され、壁を跳ね、もとの弾道へと回帰した。

 藤永が思わず両手でハンドルをぽんと叩いた。
「いいスナップだ」
 その声に反応して新田が顔を横にねじった。
「藤永君はテニスをやるのか?」
 藤永が目を丸くして言った。
「とんでもない。体を動かすことはいっさいやりません。苦手です。僕は見るだけ。“ウォッチャー”です。たぶん根っからの批評家体質なんでしょうね」
「批評家体質か……。なるほどね」
 新田は苦笑した。

 バックハンドストロークを5分間こなすと、男はふたたびフォアハンドストロークに戻った。今度はショットの強弱をめまぐるしく変化させはじめた。球速はロウからハイ、ハイからロウへと、一打ごとに緩急を変える。緩急に従い、弾道はゆるやかな弧からせわしい直線へ、そして直線からまた弧へと変化する。その、どの局面にも適切な打ち方がありフットワークがある。頭では覚えられない。体に刻み込んであるのだ。

 フォアハンドストロークに次いで、緩急織りまぜてのバックハンドストロークにとりかかった。男のバックハンドは両手打ちだが、もともとは片手打ちだった。かつて、短期間で上達するために異常なほどのオーバーワーク・トレーニングを重ね、ついには無理がたたって右肘を痛めてしまったのだ。その痛めた腕を補強するために両手打ちに転向した。ゆえに、男のバックの両手打ちはキャリアが浅いため、若干精度が甘い。男はそのことを気にしていた。

 見ているうちに藤永の批評家精神がもたげてきた。得意げに語りはじめた。
 「ラケットの振り方は、大きく分けて2種類あります。フォアハンドストロークとバックハンドストロークです。たとえば右利きの人だと、体の右側に来たボールをそのまま打てば、体はほぼ前方を向いた形でラケットを振ることになります。これがフォアハンドストロークです。逆に、その人の左側に飛んできたボールを打つときは、体の向きを変えて、ボールに対して右肩先を向けるようにしてスウィングします。これがバックハンドストロークです。

 ラケットの持ち方は、フォアもバックも、そもそもは片手だったんですが、1970年代にバックハンドストロークを両手打ちするスタープレイヤーが次々と現れるんですね。たとえば男子ではジミー・コナーズとかビヨン・ボルグ、女子ではクリス・エバートとか。さらに、最近になると……」
 藤永の話は、続いた。新田は漠然と聞きながら、橋の下の男を見つめた。
 男の動きは、さらに熱していった。

 藤永が問いかけた。
「ところで、テニスでいちばん大切なことは何だと思います?」
 新田は軽く首をかしげた。
 藤永は目を細め、嬉しそうに言った。
「走ることです。ボールを打つためには、まずボールの近くに走っていかなければならない——これがテニスの鉄則です。ゴルフのように足もとにじっとしているボールを打つ球技や、野球のバッティングのようにボールのほうから近づいてきてくれる球技とは違います。ですから、“テニスは好きだけど、走るのはなるべく避けたい”なんてのは、“水泳はしたいけど、濡れるのはいやだ”って言ってるようなもんです」

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