2005年07月24日
ラブ・フォーティ 第39話 〜ボクサー〜
(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )
第38話より続く
午前5時30分。男はボレーの練習を開始する。壁との距離を約2メートルに縮め、ラケットを体の右やや斜め前に構えると、ノーバウンドでボールを打ち始める。壁とラケットの間をボールが小刻みに往復する。地面に落下しないように、めまぐるしく微変動する玉筋を凝視して、ラケットの角度をすばやく調節する。
男の後ろ姿は、まるでパンチングボールでジャブを練習するボクサーのような、小気味いい躍動感といちずな切迫感がみなぎっている。
「あのようにノーバウンドでボールを打つことをボレーと言います。それに対して、ワンバウンドのボールを打つことをグラウンドストロークと言います。
壁に向かってのボレー練習を、俗に“壁打ちボレー”と呼んでいるんですが、これがなかなかクセモノなんですよ。というのは、実際のゲームで遭遇するボレーは、相手プレイヤーとの間で連続してもせいぜい多くて4〜5回ですが、壁打ちボレーは、うまい人になると10回、20回、30回……、さらにそれ以上の回数を続けることができます。
そうなると、ボールを打ちつづける集中力が限界に達してミスしやすくなるわけです。しかも、ほとんど同じ構えを保ったまま息つく暇もなく打ちつづけていると、体そのものにストレスがたまってきて、プレイヤーの集中力は想像以上にボロボロになります。ボレーはストロークの練習よりもこぢんまりして地味ですが、見かけ以上に地獄だということです」
藤永がしたり顔で言った。“地獄”という言葉が新田の耳に残った。
男は壁打ちボレーを30分こなす。フォアボレーを10分、バックボレーを10分、最後の10分はフォアとバックを適当にスイッチしながらボールを打ちつづける。
気温は、日の出を得て急速に上昇し始めた。男の頭部から汗がしたたり落ちる。全身から汗が噴く。男は汗の中で険しく律動する。足腰でリズムを生みながら、腕で打つというよりは上半身をボールに挑ませるようにする。壁と自分の間でボールが猛然とシャトルする。延々とそれが続く。集中力の地獄が続く。しかも、このボレーは自分の意志でいつでもやめることができるのに、やめることはつまり自分の敗北であるという、もうひとつ意志の地獄を抱え、男はボールと格闘しつづける。
突然、新田の脳裏に顔が浮かんだ。あっと息を飲んだ。なぜいままで思いつかなかったんだろうと思った。藤永のほうへ首をねじった。新田は男の名前を言った。
「ひょっとして、芳賀(はが)さん?」
藤永が微笑んだ。
「正解」
そう答えると、藤永はふたたび橋の下へ視線を戻した。
会話が途切れた。
新田はあきれて言った。
「“正解”って……、それだけかい?」
「というと?」
「僕にとっては、あれが芳賀さんだということも驚きだけど、その芳賀さんの壁打ちを、自分がこうして朝早く見に来ていることのほうがもっと驚きなんだがね」
新田の皮肉まじりの言い方をおもしろそうに聞いていた藤永が、大きくうなずいた。
「つまり、ここへ連れてこられた理由を聞きたいということですよね?」
「そう、午前3時45分に起きなければならなかった理由だ」
新田はわざと怒った顔をつくった。
藤永は悪びれるふうもなく言った。
「じつは、ここへ来る理由というのは、とくにないんです」
「“ない”?」
「ええ、まあ、正直なところ。ただ、芳賀課長が、新田さんとゆっくり話をしてみたいと言っていたのは事実で、じゃあ僕がセッティングしようかなと思ったわけです」
「芳賀さんに頼まれたのか?」
「いいえ。僕が勝手にやっていることです。僕ってそういうことが好きなんですよ」
藤永はほとんど無表情のまま言った。
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第38話より続く
午前5時30分。男はボレーの練習を開始する。壁との距離を約2メートルに縮め、ラケットを体の右やや斜め前に構えると、ノーバウンドでボールを打ち始める。壁とラケットの間をボールが小刻みに往復する。地面に落下しないように、めまぐるしく微変動する玉筋を凝視して、ラケットの角度をすばやく調節する。
男の後ろ姿は、まるでパンチングボールでジャブを練習するボクサーのような、小気味いい躍動感といちずな切迫感がみなぎっている。
「あのようにノーバウンドでボールを打つことをボレーと言います。それに対して、ワンバウンドのボールを打つことをグラウンドストロークと言います。
壁に向かってのボレー練習を、俗に“壁打ちボレー”と呼んでいるんですが、これがなかなかクセモノなんですよ。というのは、実際のゲームで遭遇するボレーは、相手プレイヤーとの間で連続してもせいぜい多くて4〜5回ですが、壁打ちボレーは、うまい人になると10回、20回、30回……、さらにそれ以上の回数を続けることができます。
そうなると、ボールを打ちつづける集中力が限界に達してミスしやすくなるわけです。しかも、ほとんど同じ構えを保ったまま息つく暇もなく打ちつづけていると、体そのものにストレスがたまってきて、プレイヤーの集中力は想像以上にボロボロになります。ボレーはストロークの練習よりもこぢんまりして地味ですが、見かけ以上に地獄だということです」
藤永がしたり顔で言った。“地獄”という言葉が新田の耳に残った。
男は壁打ちボレーを30分こなす。フォアボレーを10分、バックボレーを10分、最後の10分はフォアとバックを適当にスイッチしながらボールを打ちつづける。
気温は、日の出を得て急速に上昇し始めた。男の頭部から汗がしたたり落ちる。全身から汗が噴く。男は汗の中で険しく律動する。足腰でリズムを生みながら、腕で打つというよりは上半身をボールに挑ませるようにする。壁と自分の間でボールが猛然とシャトルする。延々とそれが続く。集中力の地獄が続く。しかも、このボレーは自分の意志でいつでもやめることができるのに、やめることはつまり自分の敗北であるという、もうひとつ意志の地獄を抱え、男はボールと格闘しつづける。
突然、新田の脳裏に顔が浮かんだ。あっと息を飲んだ。なぜいままで思いつかなかったんだろうと思った。藤永のほうへ首をねじった。新田は男の名前を言った。
「ひょっとして、芳賀(はが)さん?」
藤永が微笑んだ。
「正解」
そう答えると、藤永はふたたび橋の下へ視線を戻した。
会話が途切れた。
新田はあきれて言った。
「“正解”って……、それだけかい?」
「というと?」
「僕にとっては、あれが芳賀さんだということも驚きだけど、その芳賀さんの壁打ちを、自分がこうして朝早く見に来ていることのほうがもっと驚きなんだがね」
新田の皮肉まじりの言い方をおもしろそうに聞いていた藤永が、大きくうなずいた。
「つまり、ここへ連れてこられた理由を聞きたいということですよね?」
「そう、午前3時45分に起きなければならなかった理由だ」
新田はわざと怒った顔をつくった。
藤永は悪びれるふうもなく言った。
「じつは、ここへ来る理由というのは、とくにないんです」
「“ない”?」
「ええ、まあ、正直なところ。ただ、芳賀課長が、新田さんとゆっくり話をしてみたいと言っていたのは事実で、じゃあ僕がセッティングしようかなと思ったわけです」
「芳賀さんに頼まれたのか?」
「いいえ。僕が勝手にやっていることです。僕ってそういうことが好きなんですよ」
藤永はほとんど無表情のまま言った。
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Posted by love40 at 16:20
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