2005年07月24日
ラブ・フォーティ 第50話 〜イエローページ〜
(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )
第49話より続く
理沙が疲れを訴え始め、とりあえず家へ戻ろうということになった。
道すがら、晴美は「ひと駅かふた駅向こうのスクールはどうかしら?」と言い出し、新田は「休日にわざわざ遠くまでレッスンを受けに行きたくないよ」と言いはった。晴美の様子では、この近くにはテニススクールはもうないようだった。これで行かずにすむなと新田は思い、内心ほっとしていた。
「ところで、さっきあそこのマネージャーが、あなたにひそひそ話をしていたけど、あれは何だったの?」
晴美が聞いた。
新田は、理沙に聞こえないように声をひそめて答えた。
「あのオッサンに言わせると、僕はまだ童貞なのだそうだ。僕の耳に生あたたかい息を吹きかけながら、そんなことを言ってたよ。テニス愛好家にはホモが多いのかい?」
「なあに、それ?」
晴美がけげんな顔をした。
新田はわざととぼけて言った。
「さあ、僕にもよくわからない。ただ、ああいうところには二度と行く気がしないね」
翌日、晴美は夫を会社へ送り出すと、スクール探しを続行した。テニススクールガイドやイエローページをめくり、さらには近所の知りあいやPTA関係の友だちに片っぱしから聞いて情報をかき集めた。それらを地図に印すと、自分の家を中心にコンパスで同心円をいくつも描き、近いほうから見学して回った。
しかし夫が納得しそうなスクールはなかなか見つからなかった。月曜、火曜と日がたつにつれ地図の円は大きくなり、水曜日になると自転車で行ける距離を超え始めた。夫は休日にわざわざ遠くまで出たくないと言っていたが、晴美は構わず電車を乗り降りして探した。
木曜日には五つめの駅まで足を伸ばしたが、夫が満足しそうなスクールは見つからなかった。どのスクールも、日曜日に夫と見たスクールと代わり映えしなかった。遠くなればなるほど、よほどの魅力がない限り夫が首を縦に振るわけはなかった。
もうこれ以上遠くを探してもムダだな、と思った。帰りの電車の中で晴美は、流れる景色を窓外にぼんやり眺めながらため息をついた。テニスが自分たちから離れていくようだった。自分たちの生活に何か起こりそうな予感がしていたのに、それが急速に薄れていった。
しばらくすると見慣れた駅についた。晴美は重くなった足をホームに下ろした。駅は、学校帰りの中・高校生や買い物帰りの主婦が足早に階段のほうへ向かっていた。
理沙はもう学校から帰っているころだろう。駅前で夕飯の材料でも買って帰ろうと思いながら、晴美も人の流れに飲まれてホームを歩き始めた。上り階段に近づくにつれ、階段口で人の流れが割れていることに気がついた。みんな何かを避けているようだった。
そばまで来て、わかった。階段の1段目に老婆が背を向けてうずくまっていた。サラリーマン風の男が立ちどまり声をかけるが、老婆は背をまるめたまま手ぶりで“先へ行ってくれ”とするだけで顔をあげようとしない。その男がやや首をかしげながら階段を上がっていってしまうと、あとから来る人はそれにならい、大きな石でもよけるかのように老婆のわきをすり抜け次々と階段を上がっていってしまう。
どう見ても老婆の身の上には何かが起こっていて、それゆえ彼女は動けなくなっているとしか思えなかった。足か腰でも痛めたのだろうか。それとも気分でも悪いのだろうか。晴美は老婆の手前で立ちどまった。後続する人の流れは、今度は晴美を起点に左右に分かれた。
晴美は老婆に声をかけるかどうか迷った。その間も人の流れはとどまることはなかった。みんな見て見ぬふりなんだなと思いながらも、晴美も気恥ずかしさからか、なおも躊躇していた。と、そのときだった。晴美の眼前を人の影がさえぎった。後ろから来た人間がすっと滑りこむように老婆の横に膝をつき、かがみこんだ。野球帽から長めの髪が垂れ無造作に揺れている。その人物は、帽子のひさしがつくぐらいに顔を老婆に寄せ、ひとことふたこと話しかけると、今度は老婆の口もとへ自分の耳をもっていった。最初は男のように思えたが、中年の女だった。横顔がちらと見えた。目尻に寄せた皺に笑みがこもり、深い思いやりが漂っていた。白いトレーナーにジーンズ、大きなバッグを肩から掛け、全体に男っぽいいかつい感じの後ろ姿だが、確かに女である。
老婆は、その女を見て気を許したのか、青白くしなびた顔を向けると何かささやいた。すると野球帽の女は目尻の皺をさらに深め、老婆にささやき返した。とたんに老婆の顔が安堵に満ちてうなずいた。女はくるりと後ろを振り返った。背後に晴美が立っていた。目が合った。女は肩からバッグを外すと、それを晴美に差し出した。
「ごめんなさい。このバッグを持ってくださる?」
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第49話より続く
理沙が疲れを訴え始め、とりあえず家へ戻ろうということになった。
道すがら、晴美は「ひと駅かふた駅向こうのスクールはどうかしら?」と言い出し、新田は「休日にわざわざ遠くまでレッスンを受けに行きたくないよ」と言いはった。晴美の様子では、この近くにはテニススクールはもうないようだった。これで行かずにすむなと新田は思い、内心ほっとしていた。
「ところで、さっきあそこのマネージャーが、あなたにひそひそ話をしていたけど、あれは何だったの?」
晴美が聞いた。
新田は、理沙に聞こえないように声をひそめて答えた。
「あのオッサンに言わせると、僕はまだ童貞なのだそうだ。僕の耳に生あたたかい息を吹きかけながら、そんなことを言ってたよ。テニス愛好家にはホモが多いのかい?」
「なあに、それ?」
晴美がけげんな顔をした。
新田はわざととぼけて言った。
「さあ、僕にもよくわからない。ただ、ああいうところには二度と行く気がしないね」
翌日、晴美は夫を会社へ送り出すと、スクール探しを続行した。テニススクールガイドやイエローページをめくり、さらには近所の知りあいやPTA関係の友だちに片っぱしから聞いて情報をかき集めた。それらを地図に印すと、自分の家を中心にコンパスで同心円をいくつも描き、近いほうから見学して回った。
しかし夫が納得しそうなスクールはなかなか見つからなかった。月曜、火曜と日がたつにつれ地図の円は大きくなり、水曜日になると自転車で行ける距離を超え始めた。夫は休日にわざわざ遠くまで出たくないと言っていたが、晴美は構わず電車を乗り降りして探した。
木曜日には五つめの駅まで足を伸ばしたが、夫が満足しそうなスクールは見つからなかった。どのスクールも、日曜日に夫と見たスクールと代わり映えしなかった。遠くなればなるほど、よほどの魅力がない限り夫が首を縦に振るわけはなかった。
もうこれ以上遠くを探してもムダだな、と思った。帰りの電車の中で晴美は、流れる景色を窓外にぼんやり眺めながらため息をついた。テニスが自分たちから離れていくようだった。自分たちの生活に何か起こりそうな予感がしていたのに、それが急速に薄れていった。
しばらくすると見慣れた駅についた。晴美は重くなった足をホームに下ろした。駅は、学校帰りの中・高校生や買い物帰りの主婦が足早に階段のほうへ向かっていた。
理沙はもう学校から帰っているころだろう。駅前で夕飯の材料でも買って帰ろうと思いながら、晴美も人の流れに飲まれてホームを歩き始めた。上り階段に近づくにつれ、階段口で人の流れが割れていることに気がついた。みんな何かを避けているようだった。
そばまで来て、わかった。階段の1段目に老婆が背を向けてうずくまっていた。サラリーマン風の男が立ちどまり声をかけるが、老婆は背をまるめたまま手ぶりで“先へ行ってくれ”とするだけで顔をあげようとしない。その男がやや首をかしげながら階段を上がっていってしまうと、あとから来る人はそれにならい、大きな石でもよけるかのように老婆のわきをすり抜け次々と階段を上がっていってしまう。
どう見ても老婆の身の上には何かが起こっていて、それゆえ彼女は動けなくなっているとしか思えなかった。足か腰でも痛めたのだろうか。それとも気分でも悪いのだろうか。晴美は老婆の手前で立ちどまった。後続する人の流れは、今度は晴美を起点に左右に分かれた。
晴美は老婆に声をかけるかどうか迷った。その間も人の流れはとどまることはなかった。みんな見て見ぬふりなんだなと思いながらも、晴美も気恥ずかしさからか、なおも躊躇していた。と、そのときだった。晴美の眼前を人の影がさえぎった。後ろから来た人間がすっと滑りこむように老婆の横に膝をつき、かがみこんだ。野球帽から長めの髪が垂れ無造作に揺れている。その人物は、帽子のひさしがつくぐらいに顔を老婆に寄せ、ひとことふたこと話しかけると、今度は老婆の口もとへ自分の耳をもっていった。最初は男のように思えたが、中年の女だった。横顔がちらと見えた。目尻に寄せた皺に笑みがこもり、深い思いやりが漂っていた。白いトレーナーにジーンズ、大きなバッグを肩から掛け、全体に男っぽいいかつい感じの後ろ姿だが、確かに女である。
老婆は、その女を見て気を許したのか、青白くしなびた顔を向けると何かささやいた。すると野球帽の女は目尻の皺をさらに深め、老婆にささやき返した。とたんに老婆の顔が安堵に満ちてうなずいた。女はくるりと後ろを振り返った。背後に晴美が立っていた。目が合った。女は肩からバッグを外すと、それを晴美に差し出した。
「ごめんなさい。このバッグを持ってくださる?」
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Posted by love40 at 16:36
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