2005年07月25日

「酒と泪と男と会社」drink3:くり返し

 友人Kには、飲んだ帰りに必ず立ち寄る、ごひいきのラーメン屋があった。あっさりとしたスープに、硬めのちぢれ麺がほどよく浸っていて、Kの酔った味覚には格別の味わいだった。しかも、この店のビールは冷え方がしっかりしていて、お通しのザーサイをつまみながらの、ダメ押しの一杯がじつにうまい。
 ゆえに、ハシゴ酒でゴキゲンになったときKは、そのラーメン屋でゴキゲンな夜の総仕上げをするのが常だった。Kは悪酔いをすることのない男だった。いつもゴキゲンだった。ちょっとベランメエな喋り方にはなるが、きっぷのいい江戸っ子のような気持ちよさがあり、どの飲み屋でも歓迎された。

 そのラーメン屋は駅前にあった。カウンターにすわると、正面のガラス窓を通して往来が見渡せるかたちになっている。ということは、駅から出てくる人と目が合ってしまうのだ。衆人環視のなかで飲み喰いしているようで、どうも居心地がわるい。

 ある晩、Kはそのことを店のオヤジに告げ、なんとかならぬものかと話をもちかけた。「飾り紙を貼るとかして、目の高さのところだけでも目隠しすると落ち着くんだがなあ、オヤジさん」 すると人の良さそうなオヤジは、さも感心したような素振りで「ほんとだ、こりゃいけない。ぜひなんとかしましょう」と、にこやかに返答するのだった。

 それから一週間ほどが過ぎ、Kはまたラーメンをすすりに行った。その日も飲み屋を三軒ほどハシゴした帰り、Kはいつものようにゴキゲンだった。味噌ラーメンを頼んで、ほっとひと息するまで、例のことはすっかり忘れていた。ガラス越しに若いOLと目が合って、はじめて思い出した。ガラス窓はこの前と同じだった。なにも手が加えられていなかった。
「あれ、オヤジさん、まだ外が丸見えだね」
「ああ、すみません、今度いらっしゃる頃までにはぜひ……」オヤジは恐縮して詫びるのだった。
 こんなことが一度ならず二度三度とつづき、そのたびにKとオヤジは「頼むよ、オヤジ」「すみません、つい忙しくて……」のやりとりになる。しかしガラス窓に目隠しがほどこされることは、その後もなかった。といって、オヤジが開き直ったのかというと、そうでもなく、相も変わらず腰を低くして詫びるのだった。

 そんなある日、Kが突然酒をやめた。酒をやめれば、当然生活も変わる。夜を外で過ごすこともめっきり少なくなり、あのラーメン屋からも足が遠のいていた。

 ある晩、残業で遅くなったKは、駅前のラーメン屋で空腹を満たすことにした。そういえばシラフでこの店に入るのははじめてだな、と思った。なつかしい匂いだった。塩ラーメンを注文した。その瞬間、オヤジと目が合った。愛想のいいまなざしが返ってきたが、その視線はすぐ手元の鍋にもどってしまった。Kは、しばらくオヤジを見ていた。

 オヤジは、いそがしく麺をほぐしたり、ドンブリを並べたりしている。シラフで見るそれらは、すべてはじめて見るもののように感じられた。鍋、ドンブリ、調味料類……。Kは、なにげなくあたりを見回した。そして、例のガラス窓にたどり着いた。なにも変わってはいなかった。やはり丸見えだった。外を行き交う人々の視線が、Kの顔をさわって行く。
 Kの頭のなかで、突然なにかがスパークした。かつて味わったことのない憤りがこみ上げてくるのを感じた。オヤジが、チラリとKを見たような感じがした。いや、これは「感じ」じゃない。たしかにいまKの様子をうかがったのだ。あの愛想のいいまなざしの奥から、わずらわしそうな視線を発していた。Kは、そのとき気がついた。すべてを悟った。

──このオヤジ、最初っからガラス窓に目隠しなんか、するつもりなかったんだ!!

 酒の入っていない、酔っていない透明なKの頭に、するどい怒りが突き刺さった。Kはラーメンが出てくる前に、金だけを置いて黙って店を出た……

「あのオヤジにとって、俺の頼みごとなんて、ただの酔っぱらいのたわごとだったんだろうな。だから、いい加減な気持ちで、する気もないことを『今度までには何とか……』なんて言っていたんだろう。『やらない』とでも言おうものなら、面倒くさいことになるとでも思ったんだろうか。酔ってる人間は適当にやり過ごすにかぎる、とでも……」とK。
 いずれにせよ、あのオヤジの愛想笑いは、無視の笑いだった。そして、Kはつねに酔いの中で、それに気づかなかった。見落としていた。

 Kはしみじみ言う。「じつにたわいない出来事だから、どうでもいいことなんだけど。ただひとつ言えることは、俺が、今でも酔ってあの店へ行っていれば、あのやりとりを何度も何度もくり返していたんだろうなって気がするんだ。酔うってことは、つまり、くり返しを延々とやることなんだろうな。こわいよね」

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