2005年07月26日
安全神話
去年の暮れ、こんなことがあった。
昼の3時ごろ、僕は打ち合わせを終えると、帰宅するために電車に乗った。
乗り込んですぐの扉口に立ち、ドアが閉まるとそこに体を預けるようにもたれ、先ほどの打ち合わせの資料に目を通し始めた。
しばらく読んでいたのだけれど目の疲れでいったんやめ、顔を起こして車内をなにげに見回した。その車両には乗客が10人程度で、僕以外の人間はみんなシートに腰掛けていた。この時間帯だとこんなに空いているのか、などと思いながら僕はふたたび資料に目を戻した。と、その時、突然疑問がわいた。
「あれ? こんなに空いているのに、なぜ僕は立っているのだろう?」
座る場所はいくらでもあるのに、僕はこうして立っている。なぜなんだ?
考えてみると、この日に限らずいつも立っていることに気づいた。電車にしても、バスにしても、混み具合のいかんに関わらず僕はたいてい立っているのだ。なぜなんだ?
僕は考えた。でも、答えらしいものが思い浮かばない。
好みか? 立っているのが好きだから? いやいや、そんなことはない。現に、今の僕は座りたがっている……
そう、あの時僕は座りたいと思ったのだ。こんなに広々と空いているし。座ったほうが資料も読みやすいし。だから取り急いで、立っていなければならない理由を考えまくったのだ。
考えて、考えて、一区間ぶんくらい考えて、結局、立っている理由は見つからなかった。
となれば、ソッコー座るまでだ。
座ると、やはりラクだった。僕はひとつ深呼吸してから資料をふたたび読み始めた。
それから20分ほどして、僕は、立っていなければならなかった理由に気づかされることになる。
電車は終点に着き、居眠りしていた僕は、駅員に揺り起こされていたのだった。
僕は思わず声にしていた「あっ、そういうことだったんだ!」
今から20年ほど前から僕の睡眠不足はひどくなり、うっかりするとどこでも寝てしまうようになった。昼夜を分かたず原稿を書いている毎日。仕事柄、仕方のないことなのだけれど、最初のうちはつらくてつらくて、電車などに乗ると一目散に座り爆睡してしまう。当然ながら、眠りこけて乗り越してしまうことがよくあった。
そんなある日、その乗り越しが原因で、仕事に大穴を空けてしまったのだ。それからというもの、僕は電車やバスでは滅多に座ることがなくなった。
以来、乗り越しすることは当然なくなった。
そして、立っていることで“安全な日々”が、えんえんと20年近くも続いたのだ。
“安全”であることが日常化し、それがフツーとなってしまった僕は、その“安全”がどのようにして確保されているのか忘れてしまっていたのだ。
逆に言えば、居眠り防止に関しては、それほどまでに僕の“安全”は完璧だったと言える。完璧だからミスはなく、ミスがないから反省の対象にならない。反省の対象にならないから、意識上から消えていく。つまり忘却する。
これが、僕自身に起きた、とても小さな「安全神話の崩壊」だ。
安全ということに関して、僕はこう思っている。
『人間(日本人)は、安全であることの尊さを忘れられるほどのレベルに至るまで、努力を重ねる。したがって、忘れる』
4月25日に起きた尼崎のJR福知山線脱線事故に関して、僕はきょうまで自分のブログに書かなかった。というよりも、どうしても書けなかった。書こうとすると、涙があふれてきてしまうのだ。今までに世界じゅうでおびただしい惨事が報じられ見聞したきたけれど、今回の尼崎列車脱線事故のように、そのことを考えようとするだけで涙がこぼれてくることなどそうはなかった。
それがなぜなのか、よくわからない。ただ、誰もが欲しているはずの“安全”とか“平和”とかが、まるで粗忽者がお茶でもこぼすかのような調子で、こともなげに崩壊する瞬間を見てしまったことは、今とても深い傷となって僕の心に占めている。
たとえばアメリカ同時多発テロのような歴然たる犯意が介在したのではなく、あるいは地震のような天災によるものでもなく、この事故は、ごくありふれた日常のつまづきのような形で起きてしまっている。それが、とてつもなく悲しい、悔しい。
前述したように、安全とは、忘れられるまで高度化し純化し、そしてついには人々の意識から忘れ去られるものなのだ。
この人間的な悲しい事実と、どう対決すればいいのだろう?
人気blogランキングに参加しています
Posted by love40 at 11:30
│Comments(0)
│TrackBack(0)
この記事へのトラックバックURL
http://app.blog.livedoor.jp/love40/tb.cgi/50037612




