2005年07月26日

林真理子さんの『着物をめぐる物語』


先日、「夜半、半身浴、半読半睡」という記事を書いた。夜中に半身浴しながら本を読んだり居眠りしたりする、いたってだらしのない僕流読書法のことだ。

なにしろ「半読半睡」であるから、数ページ読んでは数分間眠ってしまうわけで、どんな骨太なストーリーも、ちょこまかと訪れる睡眠によって切りきざまれ、いわばミンチ状態になった話の筋を混乱したまま読んでいることが多い。
登場人物Aの心理描写を読んでいるうちに眠ってしまい、起きた拍子に目にとまったBの行動描写につなげて読み進めていたりする。あれほど殺意をたぎらせていた男が、次の瞬間UFOキャッチャーでパンダをゲットして大喜びしたりして……、なかなかシュールだ。

そんな読み方を続けていると、ストーリーそのものにはさしたる期待感を持たなくなり、数分間で読む文章の断片(フレーズ)に思いが集まるようになる。
林真理子さんの『着物をめぐる物語』でも、そんなことが起こった。この作品は、11の短編から構成されていて、題名のとおり着物をめぐる11人の語りが収められている。

その中のひとつ『形見』は銀座の女の物語で、短い話なのだけれど、先ほど書いたような事情ゆえ筋は省かせていただき、気になった文章のみを抜粋する──

《銀座の女にはふた通りあるの。頭が悪くて不幸になるタイプと、純情過ぎて不幸になるタイプよ。どっちも同じようなもんじゃないかって言われそうだけど、根本が違うわ。純情過ぎるっていうのはね、脳味噌や心の中のあぶくが、あまりにも多く濃く出てくることを言うのよ。頭の悪い女っていうのは、泡ひとつ出やしない。脳のつくりが単純で平べったくなっているの。》

この文の内容(2種類の不幸な女ウンヌン)が気になるのではなく、ある箇所のフレーズに僕は度肝を抜かれた。半身浴ですっかり弛緩しきっていた神経が、キリリとその文字を反復読みしていた。そのフレーズとは──

《脳味噌や心の中のあぶくが、あまりにも多く濃く出てくる》

純情過ぎるというのは《脳味噌や心の中のあぶくが、あまりにも多く濃く出てくる》ことなのだそうだ。なんだか凄いぞ、と僕は思った。林真理子さんはこの“感覚”をどこで手に入れたのだろうか。このフレーズのモチーフとなるものが、何かあったのだろうか。たとえば、サルバドール・ダリの絵画からヒントを得たとか。あるいは、林さんの持っているきわめて独自の抽象性を言語化したものなのだろうか?
気がつくと、僕は半身浴状態のまま、この数行をじっとにらんで30分ほど過ごしていた。眠くもならず、冷めていくお湯も気にせず、ひたすら考え込んでいた。でも、答えらしきものには行き当たらなかった。

今もなお、僕は時折、新潮文庫『着物をめぐる物語』の36ページを開いては、この文章をにらんであれこれ思いを巡らせている。

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