2005年07月28日

ラブ・フォーティ 第53話 〜ギブアップ〜

(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )

第52話より続く

 翌金曜日、晴美は電車でのテニススクール探しを断念した。当初は、とにかく探し出すまでは駅をひとつずつずらして歩きまわるつもりだったが、いまはむなしいことのように思えた。まったく気乗りがしなかった。きのう塚越との出会いを活かせなかったことを境に、晴美の気持ちが急速に萎えていったのである。

 晴美は午前中をうつうつとして過ごし、午後になるとなんとなく自転車に乗って近所を巡った。目的があるわけではなかった。うつうつとしている自分を、自転車の速度で振り払いたいだけだったのかもしれない。
 小学校の前にさしかかると、低学年の子供たちはもう下校時刻だった。小さな体と大きなランドセルが次々と散っていく。どの顔も、間近に迫った夏休みの気配に弾んでいる。

 晴美は理沙の教室を見上げた。娘はいまごろあそこで勉強をしているのだろう、と思うと、無為に時間を過ごしている自分が恥ずかしかった。ペダルを踏む力が自然と強くなった。行く当てもなく、ただ道にまかせて速度を上げていった。
 気がつくと、この前の日曜日に家族で歩いた道を走っていた。
 しばらくすると軽やかな打球音が晴美の耳をとらえた。

 テニスコートの脇へ出た。いちばん最初に見学したところだった。4面のコートを高いフェンスが囲み、さらにそのフェンスを緑色のネットが覆っている。道行く人の目からは、コート内の様子は緑色の霞(かすみ)がかかったようにおぼろになって見える。
 晴美は、ふりだしに戻ってしまったような徒労感を覚えながら、いっきに通りすぎようとした。

 1面……、2面……、3面と、横目にコートの様子を感じながら、この場から逃げだすような気分で晴美はペダルを踏んでいた。と、そのとき、3番目のコートあたりから、若い男の悲鳴にも似た叫び声があがった。
「まいりました!」
 晴美は思わずブレーキをかけて自転車を止め、その声の方向に目をやった。
「強すぎますよ! ギブアップ!」
 若い男は膝に手をつき前かがみになり、地面に言葉を吐きすてるように叫んだ。

 隣の4番コートから数人の笑い声が起こり、その中の初老の男が、3番コートの若い男に向かってからかうように言った。
「どうだい? ふたりがかりでも勝てないかい?」
 3番コートの若い男は、初老の男に向かって頭を掻き、それから顔を反対側に向け、ベンチにへたりこんでいる友人に声を発した。
「おい、交代してくれよ!」
 ベンチの若い男は手を横に振った。
「ダメだ、俺、もう、ダウン」

 そのやりとりを見て、4番コートのダブルス4人組がふたたび笑った。
 晴美は3番コートに目を戻した。ネットの向こう側に、いま降参した若い男がいる。そのそばのベンチに、もうひとり若い男がぐったりしている。そしてネットのこちら側には、晴美に背中を見せる形でプレイヤーがひとり立っている。どうやら、手前のプレイヤーひとりに対して、あの若者ふたりは交代しながら挑んだにもかかわらず、ふたりともこてんぱんにやられてしまったようだ。手前のプレイヤーは疲れた様子もなく堂々たる直立の姿勢で、相手の若者がボールを拾いに行ったのを静かに待っている。

 晴美は自転車から降りると、ネットの切れ目から中を覗いた。緑色の霞がなくなりコート内の様子が鮮明になった。手前のプレイヤーは思ったよりきゃしゃな感じがする。白いTシャツに青いウインドブレーカーパンツ、長髪を後ろで縛り、テニスキャップをかぶっている。
 そのプレイヤーに向かって、4番コートの初老の男が声をかけた。
「タツエさん、若いモンをあんまりいじめちゃダメだよ」
 晴美は驚いた。目の前のプレイヤーをすっかり男だと思いこんでいたのだが、どうも女らしい。男と思ったからこそきゃしゃと感じたのだが、女だとするとかなりしっかりした体だ。それに、女が男ふたりを翻弄していたとなると、ただならぬ腕前なのだろう。

 その女性プレイヤーが初老の男に顔を向けた。
「じゃあ、オガワさんに私の相手をしてもらおうかしら?」
 しゃがれた声が響いた。
 塚越さん! 晴美は思わず声を漏らしそうになった。顔は見えないが、その女は確かに塚越に違いなかった。

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