2005年07月28日
ラブ・フォーティ 第54話 〜クラブハウス〜
(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )
第53話より続く
オガワと呼ばれた初老の男が、大げさにおどけながら後ずさりした。そのかたわらで、オガワのパートナーが笑いながら言った。
「タツエさん、頼むから俺の相棒だけは殺さないでくれよ」
そのコートにいる4人の初老の男たちがいっせいに笑った。
晴美は、塚越の横顔が確かめられる位置にまで、フェンスに沿って横に移動した。そしてあらためてネットの裂け目を見つけ、そこから凝視した。
やはり塚越だった。
陽に焼けた顔、目尻に刻まれた深い皺に、ふてぶてしいほどの笑みを漂わせている。
ボール拾いを終えた若い男は、とぼとぼとベンチに戻ると、そこでもうひとりの男を無理やり立たせた。立たされた男は覚悟を決めたのか、その場で数回屈伸をおこなうと、コートの中へ入っていった。男たちはふたりとも頑強な体つきをしているが、その体が無残に萎えているのが、はたから見てもわかった。よほどの激戦をしたのだろう。
プレイが再開された。晴美にはよくわからなかったが、塚越も男も相当の腕前のように見えた。ついいましがた「ダウン」と嘆いていたわりには、その男の動きもまんざらではないように思えた。
晴美はフェンスにへばりついていた。夢中になって見ているうちに、ふたりの動きの違いがなんとなくわかってきた。塚越も男もフットワークがじつにいいのだが、男のほうはボールを一生懸命に追いかけて打っているという感じがするのに対し、塚越のほうは、彼女が行くところにボールがあとから飛んできて、それを“待ってました”とばかりに打ち返しているように見えた。おそらく塚越のボールの読みが抜群にいいのだろう。大柄の男がムキになって打つと、彼よりはずっと小柄な塚越がひらりと打ち返す。まるで弁慶と牛若丸がテニスをしているようだ、と晴美は思い、くすりと笑った。なるほどこういう試合をやられたら、いかに頑強な肉体の持ち主でも音(ね)をあげたくなるかもしれない。
ゲームの切れ目になるたびに、晴美は塚越に声をかけたい衝動にかられた。ちょっとでいいから話がしたかった。この前言い出しかねたことを、今度こそは絶対言わなければならないと思った。しかし塚越の背中が、晴美の口を封じた。背中から立ちのぼる殺気が「コートに言葉を持ちこむな」と命じているように感じられた。
晴美の指がフェンスの金網に食いこむままに、時は過ぎていった。いつのまにか4番コートの初老の男たちは引きあげ、入れ替わって若い男女のグループがウォームアップし始めていた。
クラブハウスの出入り口が賑やかになった。晴美が横を見やると、先ほどの初老の男たちが声高に話しながら外に出てきたところだった。
ひとりが裏の駐車場から車を引きだし、それに仲間ふたりが便乗すると走り去った。あとひとりは歩いて帰るのだろう。彼はクラブハウスの前で車を見送りながら、煙草を一服し始めた。人のよさそうな下ぶくれ顔を青空に向け、煙を吹き上げている。晴美はとっさにペダルに片足をかけると、もう片方の足で地面を蹴って自転車を滑らせ、その男に近寄った。
「あの、ちょっとお伺いします」
「何か?」
下ぶくれの顔がにこやかに晴美を見た。
晴美は後ろを振りむきながら塚越のほうを指さした。
「あそこでテニスをされている女性は、確か塚越さんという方だと思うんですが?」
「塚越? ……あ、そうそう、塚越タツエさん。僕らはいつも“タツエさん”って呼んでいるから、名字で言われるとどうもぴんと来なくて。確かに、塚越さんだけど?」
「あの方、テニスはお上手なんですか?」
晴美がそう尋ねると、男は下ぶくれをたらんと伸ばして笑った。
「見ればわかるじゃないの。見たとおりだよ。うまいの何のって。べらぼうだよ」
「あの……、あの方は何をされている方なんですか?」
「“何を”って、どういうことかね?」
男の目がいぶかしげに晴美を見た。
晴美はあわてて手を横に振った。
「あ、いえ。男の人ふたりを相手にして、あれだけテニスをされているので、ひょっとしてテニスのコーチか何かやっている方なのかと……」
「ああ、そういうことね」男の目がやわらいだ。「そういうことは、いまはしていないんじゃないのかな」
「“いまは”?」
「以前は教えていたことがあるとか噂では聞いてるけどね。僕もこっちのほうに引っ越してきて3年ほどしかたっていないから、その辺のことはよく知らんのだよ。それに、タツエさんは自分のことをあまり言わんからね。タツエさん、ときどき“道楽でテニスをやってるんだ”って言うことはあるけど、あの人のテニスは、道は道でも“楽しい道”の道楽というよりは“道を極める”ほうの、つまりは極道(ごくどう)のような凄さがあるわな」
男はふくよかに高笑いした。
楽しい道ではなくて、道を極めるか……。晴美はその言葉の余韻を噛みしめた。噛みしめているうちに、胸につんと来るものがあった。晴美はある決心をした。
続き(第55話)を読む
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第53話より続く
オガワと呼ばれた初老の男が、大げさにおどけながら後ずさりした。そのかたわらで、オガワのパートナーが笑いながら言った。
「タツエさん、頼むから俺の相棒だけは殺さないでくれよ」
そのコートにいる4人の初老の男たちがいっせいに笑った。
晴美は、塚越の横顔が確かめられる位置にまで、フェンスに沿って横に移動した。そしてあらためてネットの裂け目を見つけ、そこから凝視した。
やはり塚越だった。
陽に焼けた顔、目尻に刻まれた深い皺に、ふてぶてしいほどの笑みを漂わせている。
ボール拾いを終えた若い男は、とぼとぼとベンチに戻ると、そこでもうひとりの男を無理やり立たせた。立たされた男は覚悟を決めたのか、その場で数回屈伸をおこなうと、コートの中へ入っていった。男たちはふたりとも頑強な体つきをしているが、その体が無残に萎えているのが、はたから見てもわかった。よほどの激戦をしたのだろう。
プレイが再開された。晴美にはよくわからなかったが、塚越も男も相当の腕前のように見えた。ついいましがた「ダウン」と嘆いていたわりには、その男の動きもまんざらではないように思えた。
晴美はフェンスにへばりついていた。夢中になって見ているうちに、ふたりの動きの違いがなんとなくわかってきた。塚越も男もフットワークがじつにいいのだが、男のほうはボールを一生懸命に追いかけて打っているという感じがするのに対し、塚越のほうは、彼女が行くところにボールがあとから飛んできて、それを“待ってました”とばかりに打ち返しているように見えた。おそらく塚越のボールの読みが抜群にいいのだろう。大柄の男がムキになって打つと、彼よりはずっと小柄な塚越がひらりと打ち返す。まるで弁慶と牛若丸がテニスをしているようだ、と晴美は思い、くすりと笑った。なるほどこういう試合をやられたら、いかに頑強な肉体の持ち主でも音(ね)をあげたくなるかもしれない。
ゲームの切れ目になるたびに、晴美は塚越に声をかけたい衝動にかられた。ちょっとでいいから話がしたかった。この前言い出しかねたことを、今度こそは絶対言わなければならないと思った。しかし塚越の背中が、晴美の口を封じた。背中から立ちのぼる殺気が「コートに言葉を持ちこむな」と命じているように感じられた。
晴美の指がフェンスの金網に食いこむままに、時は過ぎていった。いつのまにか4番コートの初老の男たちは引きあげ、入れ替わって若い男女のグループがウォームアップし始めていた。
クラブハウスの出入り口が賑やかになった。晴美が横を見やると、先ほどの初老の男たちが声高に話しながら外に出てきたところだった。
ひとりが裏の駐車場から車を引きだし、それに仲間ふたりが便乗すると走り去った。あとひとりは歩いて帰るのだろう。彼はクラブハウスの前で車を見送りながら、煙草を一服し始めた。人のよさそうな下ぶくれ顔を青空に向け、煙を吹き上げている。晴美はとっさにペダルに片足をかけると、もう片方の足で地面を蹴って自転車を滑らせ、その男に近寄った。
「あの、ちょっとお伺いします」
「何か?」
下ぶくれの顔がにこやかに晴美を見た。
晴美は後ろを振りむきながら塚越のほうを指さした。
「あそこでテニスをされている女性は、確か塚越さんという方だと思うんですが?」
「塚越? ……あ、そうそう、塚越タツエさん。僕らはいつも“タツエさん”って呼んでいるから、名字で言われるとどうもぴんと来なくて。確かに、塚越さんだけど?」
「あの方、テニスはお上手なんですか?」
晴美がそう尋ねると、男は下ぶくれをたらんと伸ばして笑った。
「見ればわかるじゃないの。見たとおりだよ。うまいの何のって。べらぼうだよ」
「あの……、あの方は何をされている方なんですか?」
「“何を”って、どういうことかね?」
男の目がいぶかしげに晴美を見た。
晴美はあわてて手を横に振った。
「あ、いえ。男の人ふたりを相手にして、あれだけテニスをされているので、ひょっとしてテニスのコーチか何かやっている方なのかと……」
「ああ、そういうことね」男の目がやわらいだ。「そういうことは、いまはしていないんじゃないのかな」
「“いまは”?」
「以前は教えていたことがあるとか噂では聞いてるけどね。僕もこっちのほうに引っ越してきて3年ほどしかたっていないから、その辺のことはよく知らんのだよ。それに、タツエさんは自分のことをあまり言わんからね。タツエさん、ときどき“道楽でテニスをやってるんだ”って言うことはあるけど、あの人のテニスは、道は道でも“楽しい道”の道楽というよりは“道を極める”ほうの、つまりは極道(ごくどう)のような凄さがあるわな」
男はふくよかに高笑いした。
楽しい道ではなくて、道を極めるか……。晴美はその言葉の余韻を噛みしめた。噛みしめているうちに、胸につんと来るものがあった。晴美はある決心をした。
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Posted by love40 at 06:24
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