2005年07月30日

ラブ・フォーティ 第57話 〜ベランダ〜

(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )

第56話より続く

 その夜新田は、酔って疲れているにもかかわらず寝つけなかった。ウトウトとしたまま明け方を迎えてしまった。
 ベッドから抜け出し、居間のソファーに横たわって、ベランダ越しの薄明(はくめい)をボンヤリと眺めていた。開け放ったガラス戸から、湿度をたっぷり含んだ風がヨロヨロと流れ込んでくる。そろそろエアコンを入れようかとも思うのだが、けだるくて体を動かす気になれなかった。
 そのうちまぶたが重くなり、深い眠りに吸いこまれていった。

 ガラス戸の外、つまりベランダの下のほうから誰かの声がかすかに這い上がってきて、その声に新田は起こされた。ソファーから立ち上がり、ガラス戸を抜け、ベランダに出て見おろしたその瞬間、新田の全身にびっしり鳥肌が立った。3階下の路上に、芳賀が笑って立っていた。新田はいままでにこれほど驚いたことはなかった。恐怖に近い驚きだった。
 芳賀は、新田の引きつった形相を気にすることもなく、いつもと変わらぬ笑顔で手を振っている。
「どうした、新田、二日酔いか?」
 明け方の静けさのなか、芳賀の声は穏やかだった。

 新田は混乱したまま声を漏らしていた。
「あ……、いえ……、ちょっとだけ……」
「誰と飲んだ?」
「ひ、ひとりで……」
「ひとり? どこで?」
「新宿で……」
「おまえ、まだ酒まみれになる習慣がなおってないのか?」
「いえ、本当に久しぶりですよ」
「営業部から外れても同じとは……。食研で自分の生活を静かに見直して、本当のおまえを手に入れるチャンスなのに……。情けないヤツだよ」

 芳賀の言っていることが、新田にはよく呑み込めなかった。新田の困惑をよそに、芳賀の声がにわかに尖った。
「ま、今度ゆっくり考えてみろよ。そんなことより、早くしないと時間がないんだ。早く下りてこいよ」
「“早く”?」
「新田、おまえ、まだ寝ぼけてんな。この前、約束したじゃないか。覚悟きめて下りてこいよ」芳賀の声がさらに強制的な響きを帯びて、新田の耳に届いた。「きょうからランニングだ。早くしろ」

「“きょうから”って……」
 新田は面食らった。揺らいだ自分を制するためにベランダの手すりにしがみついた。芳賀は含み笑いを浮かべて見あげていたが、ふたたび厳しい顔に戻り固い声を発した。
「おまえの希望だろ。早くしろ、デブ!」
 新田は、芳賀の声にもっと近づこうとでもするように、手すりに身をあずけ上体を乗りだした。そして目を凝らした。すると、芳賀がトレーニングウェアであることに気づいた。しかも顔には相当の汗をかいている。

「芳賀さん、まさか、走ってきたのでは……?」
「その“まさか”だ」
「どこから走ってきたんですか?」
「“どこから”って……、家からに決まってるじゃないか」
「“家”って言ったって……」
「何をウダウダ言ってるんだ。まさか約束を破るんじゃないだろうな。早く下りてこい!」

 ひっそりとした住宅街を揺さぶるような荒らげた声だった。新田はあわてて両の手の平を下に向け、芳賀のいらだちを静めようとした。
 「わ、わかりました、わかりました。いますぐ下ります」
 言うなり新田は手すりから身を引き離し、ベランダを後ずさりした。アルミサッシの窓レールに踵がぶつかったところでくるりと反転し、部屋の中へ飛び込んだ。

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