2005年08月03日

ラブ・フォーティ 第61話 〜リクエスト〜

(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )

第60話より続く

 娘が母親に得意げに言った。
「お父さんはいまレム睡眠だったんだよ。理沙は観察してたんだから。閉じたまぶたの下で目玉がくりくり動いていたもん。お母さんはレム睡眠を知ってた? レム睡眠のときは、人は夢を見てるんだよ。だから、お父さんはいま夢を見ていたんだよ。そうでしょ? お父さんはいま何の夢を見ていたの?」
「夢か……」
 新田は漏れるような息の下からつぶやき、ふたたびまぶたを引きさげた。

 夢か……。そう思いながらも、新田は最後のシーンを追った。あの最後のサーブはどうなったのだろうか。頭の中に響いたあの声は何だったのだろうか。テニスとはあんなにスリリングなものなのだろうか。
 晴美が夫の肩に手をかけ軽く揺すった。
「あなた、会社に遅れるわよ。起きてちょうだい」
 新田は目をつぶったまま眉間に皺を寄せた。
 晴美は大げさにため息をついた。
「きのうはずいぶん酔っていたようね」
 そう言う晴美の声は、すでにキッチンのほうへ遠ざかっていくところだった。理沙の気配も子供部屋へ消えていった。

 しばらくキッチンの物音だけだけが響いていた。
 不意に晴美の声が新田の耳に飛んできた。
「そうそう、あなたに聞きたいことがあったの。駅の向こうに“エリーゼ”というスナックがあるんだけど、知ってる?」
「“エリーゼ”?」
 新田は渋々目を開け、にごった視界で晴美の背中をとらえた。妻の口から飲み屋の名前を聞くというのは、どうも落ちつかない。
「何だ、その店?」
「あなた知らない?」
「いや。記憶にないね」

「そう」晴美がくるりと新田に振り返った。「じゃあ、その店へ行ってみてちょうだい」
「行って、どうする?」
 新田のけげんそうな声を、晴美は笑い飛ばした。
「“どうする”って、スナックなんだもの、飲めば? 飲むの嫌いじゃないでしょ?」
「嫌いじゃないけど、どうしてそこで飲まなければならないんだ?」
「とにかく行ってみてよ」
「わけもわからずに飲みに行くなんて気持ち悪いじゃないか」
「とにかく行ってみて」

 晴美は「とにかく行ってみて」の一点張りだった。
 新田は仕方なく折れた。きのう連絡もせずに飲みに行ってしまった後ろめたさもあって、妻の機嫌をあまり損ねたくなかった。とにかく行ってみることにした。なるべく早いほうがいいと言う妻のリクエストに応じ、きょうの仕事帰りにでも行ってみると答えた。

 代わりばえのしない一日が終わり、定時に会社を出ると、新田はエリーゼという店をうつろに想像しながら帰途についた。
 電車を降りると、家とは反対側の駅口に出た。商店街はこちらのほうが栄えていた。商店の賑わいに連なって飲み屋もかなりの数が軒を並べている。
 妻が書いた地図を頼りに、エリーゼという店はすぐに見つかった。
 路上にアクリル製の箱看板が置かれ、そこに“エリーゼ”と印されていた。“エリーゼ”の飾り文字の下には、やけに角ばった字で“カラオケ無料”とマジックインクで書きたされている。まだ灯っていなかった。

 店の前面はモルタルづくりで、その壁面にアンティークな西洋風の扉とステンドグラスの小窓がはめこまれている。いかにも地元の客を相手にしているという感じの店で、新田には縁がなさそうに思えた。
 時計を見た。6時半。来るのがちょっと早すぎたかなと思いながらも、試しに扉を押してみた。焦げ茶色の扉は見かけの重さよりもはるかに軽く開いた。カラコロと頭上でカウベルが鳴りひびき、新田は思わず首をすくめた。クーラーの冷気が戸口の外まであふれだしてきた。

 新田は用心しながら店の中に体を半分入れ、首を巡らした。天井には重苦しいほどに華美なシャンデリアが2灯垂れているが、いまはまだ働いていない。そのかわり、ほとんど裸電球のような室内灯がそっけない光を放っている。まるで化粧をする前の女の素顔を見てしまったような、げんなりした気分に新田は襲われた。
 さらに足を1歩踏みいれた。やや高めのカウンターに7脚ほどのスツール。ボックス席が2セット。ずいぶん古いタイプのカラオケ機が隅に居座っている。
 誰もいなかった。客もいなければ、店の者もいなかった。

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