2005年08月16日

ラブ・フォーティ 第74話 〜オーバー〜


(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )

第73話より続く

 新田は無言のまま壁に向き直ると、ひとつ深呼吸してから自分の前にボールを放った。と同時にラケットを構えた。タツエが後ろでにやりと笑う。ボールがワンバウンドした。振り出されたラケットがボールを叩いた。打球は右方向に飛んだ。前方の壁に当たるとさらに右へ跳ね返った。新田はその動きに合わせて右横へ走る。走りながらラケットを突き出した。かろうじてラケットの先にボールが当たった。ボールはさらに右へ切れた。
 新田の足ではそこが限界だった。倒れる1歩手前でなんとか体を保ち、立ち止まった。とたんに肩が大きく上下した。呼吸が重くなり、吐き気が胸を突きあげた。

 ボールはサイドの壁にぶつかり、なおも転がった。
「新田さん」
 後ろからタツエが声をかけた。
 振り返る新田に向かって、タツエはもう1個ボールを投げた。新田はラケットでボールを受けようとするが、とんでもない方向に弾いてしまう。それを追って、またもやバタバタと走った。息苦しさと吐き気がさらに首を絞めた。かまわず新田はボールを追い、追いつき、憎しみを込めてボールを鷲づかみにした。
 タツエには新田がいまにも発狂しそうに見えた。

 新田はその場で壁に向き、ふたたびボールをワンバウンドさせてラケットで打った。今度は左へ飛んだ。ボールは壁でさらに左へ屈折した。新田は追った。間に合わない。ボールは左後方の隅へ転がっていった。
 「もう1本」
 タツエがボールを投げる。新田はラケットで受けた。今度はボールの動きをうまく制御できた。ボールを地面にバウンドさせながら新田は呼吸を整えようとするが、おさまる様子はまったくなかった。新田はいらだち、いきなり左手で宙のボールをひっつかんだ。そして、ボールを恨めしげに見下ろしながら舌打ちをし、今度は空を見上げた。太陽が熱いトゲを顔に降らす。汗がいっきに噴き出す。

 新田はまた壁に向かった。肩が波を打っている。息苦しさがタツエにまで伝わってくる。
 新田は壁打ちを再開した。ラケットから壁、壁から地面、そして地面からラケットに戻って、1回のローテーション。そのローテーションが、どうしても3回以上できない。打ち方も悪いが、それたボールを追撃するフットワークがない。足から自滅している。
 タツエはじっと観察する。
 新田は何度も試みた。そして、くたびれた。がくりと動きが止まる。Tシャツが汗の重みで伸びていた。とくに、せり出した腹にはべったりと生地がへばりつき、たるんだ脂肪の重量感と相まって、新田に激しい自己嫌悪を催させた。

 タツエが背後から新田に近づいてきた。
 「ねえ、新田さん。身長と体重は?」
 新田は敗残の顔をタツエに向けた。荒い呼吸とともに、とぎれとぎれに言った。
「100…60…9…センチ……、70…8…キロ……」
「169センチ、78キロ。そう、それじゃあ……」タツエはすばやく暗算した。「体が重すぎる。どう見積もっても15キロはゆうにオーバーしている。ボールを追うには太りすぎ。テニスというスポーツは、どんなにスウィングフォームを磨いても、ボールが飛んでいる所に間に合わなければ何の役にも立たないわけ。テニスは球技である前に陸上競技だと思ってちょうだいね」

 タツエはため息をひとつついて腕組みをした。もう1度新田の全身を上下に眺めた。新田はラケットの後ろに隠れるように身を縮めた。
 タツエは容赦なく言った。
「重すぎる。象ね」
 新田が顔の汗を手で払いのけ、目をしばたたいた。
「“ぞう”?」
「そう、象。のっしのっし歩く象さん。重すぎるの。だから体重を落とさなければダメ。いくら私でも、象にテニスを教えることはできないわ」
「象……」
 新田は力なくつぶやいた。その言葉の余韻に笑いが混ざった。新田は鼻で笑いながら自分の体を見下ろした。腹がこんもりとそびえ、その下でトレーニングパンツがずり落ちていた。

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