2005年08月19日

ラブ・フォーティ 第77話 〜ランナー〜


(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )

第76話より続く

 6週間で8キロ減は、新田の容姿を明らかに変えはじめていた。一見すれば“激ヤセ”だった。しかしその内実は“武装”とも言えるほどの体内強化だった。
 家族は事情を知っていたが、そうでない会社の同僚たちは、新田の変貌ぶりを少なからず詮索するのだった。中には、今回の早川事件がいまだに新田を苦しめているのだろうと見るムキもあった。
 新田は、激ヤセを気づかわれるたびに、自分の環境の変化――営業部を離れたことによって接待酒がなくなり酒太りが解消され、しかも、食品研究部へ移ったことで食生活に気をつけるようになり結果的にダイエットになった――などと説明することにしていた。

“環境の変化”というまことしやかな説明は、本当のことを明かす気のない新田にとって、じつに便利な嘘だった。新田の痩身は、確かに“環境の変化”に端を発したものだが、それをここまで敢行させたのは、彼の“めざめ”によるものだった。そのことを新田はよく自覚していた。新田の“めざめ”とは、つまり、デブはテニスコートでくたばるしかないという“恐怖”のことだった。それがあったからこそ、彼は必死に走りつづけることができたのだった。この“恐怖”のことを、新田は誰かに明かそうとは思わなかった。この“恐怖”は当事者にしか理解できないことを、新田は知っていた。

 7週間目。トレーニング・メニューは“ロード走”に変わった。8キロも体が軽くなり、スタミナもついてきた新田にとって、ロード走は階段走よりはるかにラクだった。平坦な街路を風景でも見ながら走るのは楽しいことでさえあった。これもタツエの作戦だった。いままでのトレーニングを忠実にこなしてきた新田へのささやかなご褒美である。また心身の疲労とストレスがピークになるこの時期を、じょうずに乗り切りたいと思ってのメニューでもあった。ランニングというよりもジョギングという感じで、ゆっくり味わいながら走ること、疲れたらやめること、というのがタツエからのコーチングだった。減量目標は、第一関門である69キロまであと1キロとなった。

 ロード走は早朝におこなった。
 この時間に、あの芳賀さんも橋の下でトレーニングに励んでいるのかと思うと、新田は自分と彼との間に見えない絆のようなものを感じるのだった。いずれ芳賀さんには自分のことを言うことになるのだろうが、いまはまだその時期ではないだろう、と新田は思っていた。
 走っていると、早朝の静けさの中をひた走るランナーと、ひとりまたひとりと行き交う。挨拶などはしないが、その見知らぬ人物とも絆のようなものを感じる。すれ違う瞬間、ランナー同士のエネルギーの交歓が起こる。そのたびに新田の足は生まれかわり軽くなる。いま走り去った人もこれから仕事なのかな、と思う。がんばれよ、と心の中で声援を送る。そして、その声援を自分にも向ける。新田は早朝のランニングを心から楽しむようになっていた。

 起床が2時間早くなった。就寝も2時間早くした。そのぶん夕方から夜にかけての時間帯が短くなった。ある意味で、忙しくなった。時間の許すかぎり、朝のロード走以外に、退社後にはプール走や階段走もこなすようになった。新田は積極的に運動量を増やしていった。仕事が主役だった毎日に、運動という脇役が誕生し、その運動が準主役へと成長していく。それとは反対に、いままで準主役だった夜の酒は、いつのまにか新田の舞台から姿を消していた。新田自身は禁酒しているつもりはなかった。ただ、毎日の営みの中で、やりたいことの優先順位から飲酒が落ちこぼれてしまっただけのことである。
 それほどに新田の1日は急速に濃密になっていった。退社後の時間を持てあましている同僚を見ると、とてもかわいそうに思えた。

 減量はスムーズに進んだ。7週間目の終わりには69キロを軽くクリアしていた。新田はついに第一関門を通過したのだった。
 第一関門の“卒業式”は、その週の日曜日におこなわれた、新田はエリーゼに呼びだされた。ミーティングを兼ねて打ち上げをしようというタツエの計らいだった。店は年中無休であるため、開店前の2時間ほどを利用することになった。
 シャンデリアではなく普通照明に照らされた店内は、あっけらかんとしていた。その中、たっぷり陽に焼けたタツエの顔が君臨していた。タツエはテニス帰りとわかる格好で、新田をにこやかに迎えたのだった。

 ひと目で、新田のトレーニングの成果はわかった。3週間のプール走、3週間の階段走、そしてロード走を1週間やり遂げ、顔も体もひき締まった新田に、タツエは拍手を送った。新田は照れながらスツールに腰かけた。
 タツエはうまそうに煙草を吸いながら言った。
「正直言って、続くとは思っていなかった」
「本人だってそう思っていたんだから、これはタツエさんにうまく乗せられたというのか、脅されたというのか……」
「あら、人聞きの悪い」
 ふたりは同時に笑った。

続き(第78話)を読む


人気blogランキングに参加中♪