2005年08月29日

ラブ・フォーティ 第87話 〜グランドスラム〜


(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )

第86話より続く

「“ドン・バッジ”?」
「はい。かつての名テニスプレイヤーです。20世紀初頭の人ですから、たぶんご存じないでしょう」
「ええ、まったく……」
「1938年に史上初の年間グランドスラムを達成した人です。その年の1年間で、全豪、全仏、全英、全米の4大テニス大会すべてで優勝したんです。男子プレイヤーでは、このあと1962年と69年にオーストラリアのロッド・レーバーしか達成していない大変な記録です」
「なるほど。史上初の年間グランドスラマーですか」
「そうです。そのドン・バッジが日本に来たことがあるんです。そして、そのとき、ある天才少女に出会った」
「で、その天才少女というのが……?」

「そう、タツエさんだったそうです。その記事の写真には、ネットを挟んでドン・バッジと当時小学5年生のタツエさんが握手をしていたそうです。
 その記事によると、引退後にプライベートで来日したバッジが、日本のテニス通から、名古屋というところに天才的なテニス少女がいるから見に行かないかと誘われたそうです。東京から京都へと旅程を組んでいたバッジは、急きょ予定を変更。名古屋に途中下車して、その少女が出入りしているテニスクラブへこっそり見に行ったそうです。
 バッジは、最初フェンスの陰から静かに覗いていたそうですが、その少女の凄さに驚嘆して、“どうしてもあの子とプレイをしてみたい”と言い出したそうです。ラケットやウェアは常に持ち歩いていたそうで、バッジの望みはすぐに実現したらしい。突然のグランドスラマーの出現に、そのテニスクラブがひっくり返るほど騒然とした中で、39歳のアメリカ人と11歳の少女がラリーをおこなったそうです。プレイを楽しんだあと、バッジはその少女に言ったそうです。“僕が本格的にテニスを始めたのは13歳だった。まだ11歳のあなたの将来が、とても楽しみだ”と」

 丸山が言葉を切った。しんと静まり返った。ふたりは黙したまま、それぞれにいまの話を反芻した。視線を互いの顔から微妙にずらし、間(ま)をとった。
 不意に丸山が自分の視線を、新田の目の中にねじこんできた。
「じつは、この話、いままで誰にも話したことがないんです。新田さんに初めて話しました」
「……何かわけでも?」
「タツエさんとの約束だからです。正確には、タツエさんから記事を見せてもらった人との約束だからです」
 新田には、丸山の言っていることがよくわからなかった。

 丸山は察して、説明を加えた。
 「ちょっと、わかりにくいですよね。つまり、こういうことです。その人……Aさんということにしましょうか……Aさんは、どういう経緯でかはわかりませんが、タツエさんからその記事を見せてもらった。そのさい、タツエさんから“ほかの誰にも言わないでほしい”と言われたそうです。
 Aさんはその約束を守りました。
 ところがあるとき、そのAさんが仕事の関係で海外へ移ることになったんです。Aさんにとって海外行きは喜ばしいことでしたが、心残りと言えば、いままで和気あいあいとやってきたテニス仲間と、おそらく二度とプレイができなくなることだったそうです。とくにコーチ役だったタツエさんとプレイができなくなるのがつらかったそうです。
 Aさんにとって、例の記事の秘密は、ふたりの間の強い絆であるとともに、塚越達江という人を理解するための大切な鍵のように思えたそうです。そのとき、ふと、日本を離れる前に誰かに記事の秘密を受け継いでもらおうと思ったそうです」

「それが丸山さんだった……」
「ということになります。Aさんとの約束をきょうまで守ってきました」
「ちょ……」新田の首すじにちりちりと鳥肌が這った。「ちょっと待ってください。“きょうまで”って、それじゃあまずいじゃないですか。約束を破ってしまったことになるじゃないですか」
 新田の狼狽ぶりをよそに、丸山は平然と首を横に振った。
「そんなことありません」
「しかし……」
「そんなことありませんて。なぜなら、記事の秘密は、たったいま新田さんに受け継いでいただいたわけですから」

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