2005年09月13日
ラブ・フォーティ 第102話 〜エネルギー〜
(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )
第101話より続く
新田は、彼女たちを放っておいて貯水槽の底へ降りていった。
ストレッチを始めると、まもなくふたりも降りてきた。
晴美が新田に聞いた。
「壁打ち始めてどのくらいになる?」
「3週間」
「まだ、そんなもの?」
晴美の“そんなもの”には、驚きとともに不満のようなものが入りまじっていた。3週間程度の練習ではあまり期待できないとでも言いたげな口ぶりだった。
「ああ、そんなものだ」
新田はむっとした口調で答えて、「だから、まだ見せたくなかったんだ」と心の中で文句をつけ加えた。
壁の前に立った。妻と娘の視線を感じ、新田はいつになく自分が緊張していることに気づいた。新田はボールを地面に打ちつけながらタツエの言葉を思い出していた。
「緊張はエネルギー。緊張したら喜んでそれを味わうこと。エネルギーが生まれている瞬間なんだから」
新田の体がすっと軽くなった。
いまだ、と思った。
打った。
自分でも驚くほど見事な第一打だった。ボールの運びは完璧だった。新田の気持ちがいっきに乗った。
打ち始めはいつでももたつくのに、きょうはなぜか最初からクリアだ。
小気味のいいストローク。
7メートルの短空間を黄色い軌道がリズミカルに彩る。
理沙が「お父さん、うまい!」と言って手を叩いた。
晴美は驚いた。3週間でこれほど軽やかに打てるようになるものなのだろうか。“そんなもの”どころじゃないわ。
晴美はつい数日前のことを思い出した。夜中だった。目をさますと、夫がうなされていた。ベッドライトをつけると、その明るみの中に夫の疲れきった顔があった。その顔の下の枕にかすかな染みがあった。血だった。晴美はあわてて夫の顔を調べた。鼻、目、耳……。どこにも出血の跡はないようだった。夫の手が枕をつかんでいた。その手を、そっと引きはがしてみた。手の平を見てゾッとした。手の皮があちこち破れ、めくれあがり、そこに凝固した血がこびりつき、さらにそれが裂け、あらたに出血している。こんなになっているなんて晴美は知らなかった。夫は隠していたのだ。晴美が手の平の血をふこうとした瞬間、夫が自分のこぶしをひったくるように寝返りをうった。晴美は考えたすえにそのまま寝ることにした。あした夫が出かけたら枕カバーを取り替えておくだけにしよう。あとは素知らぬ顔をしていよう、と思った。
新田は、晴美と理沙の目の前で1時間みっちりメニューをこなして壁打ちを終わらせた。ふたりのギャラリーが拍手をした。
理沙がタオルを持って駆け寄ってきた。
「なかなかやるね、お父さん」
「まだまだこれからだよ」
「タイヘンだね」
「ああ、タイヘンだよ」
顔を見合わせて笑った。
新田は急いで帰りじたくをした。自分は会社へ、理沙は学校へ行かなければならなかった。
貯水槽から出て中庭を通りすぎるとき、晴美はわずかに自転車のほうへ視線を配った。そしてひとり密かにうなずいたのだった。
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Posted by love40 at 07:37
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