2005年09月20日

ラブ・フォーティ 第109話 〜メンタル〜


(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )

第108話より続く

 タツエがおもむろに話し始めた。
「彼女はOLで、テニスは中学の部活で始めたと言っていた。私が初めて見たとき、彼女はすでにしっかりとしたテニスをしていたんだけど、なぜか試合となるとぜんぜん勝てないの。本人はとても悩んでいた。
 よくあるタイプね。“テニスがうまいこと”と“テニスが強いこと”の違いがわかっていないのよ。
 あるとき彼女に相談されて、それで私が教えてあげることにした。彼女の場合、問題なのはテクニック面ではなくてメンタル面のことだから、普通のテニススクールに行っても解決しないと思ったの。勝つことの意味を考え、闘争心を養いながら練習するというのは、意外と難しいものなのよ。
 彼女はとにかく素直な子でね。私の言うことをよく聞いて、練習も本当によくしたし、試合にも果敢に参加した」

 タツエは突然立ち止まると、自転車を体にもたせかけ、ポケットから煙草を取り出した。
 新田も止まり、黙して待った。
 タツエは、北風をさえぎりながら火をつけると、やや顔をしかめ、ゆっくり煙草を吸い込んだ。その姿はまるで、自分の頭の中に浮かぶ苦々しい思い出を、紫煙の味わいでわざと紛らわそうとしているかのように、新田には見えた。
 タツエは煙を吐き出すと、新田にわずかに笑みを向けてから、ふたたび自転車を押し始めた。

「教え始めて4カ月ほどたった夏のことだった。彼女が休暇がとれたので、旅行をかねてふたりで軽井沢にテニス合宿をしたの。涼しいと思って行ったのに、例年になく暑くてね。にもかかわらず、私はいつもの調子でびしびしレッスンしちゃったわけ。そしたら、彼女が倒れてしまった。ゲームの最中に、突然彼女がコートにうずくまってしまったの。
 救急車で運ばれたんだけど、症状自体はとても軽いもので、検査をして、しばらく様子を見て、その日に退院していいということになった。
 じつは彼女、子供のときから体があまり強いほうではなかったのね。その日も、コートで打ちあっている途中から、気分があまりよくなかったらしいの。それでも無理してプレイしていたら、突然胸が苦しくなってしまった……。

 私が“なぜそこまで無理するの!”って怒ったら、彼女がこう言ったの。“タツエさんにテニスを習いたくても、ほとんどの人が習えないのに、幸運にも私はこうやって教えてもらえるようになった。その私が途中で弱音を吐いたら、ほかの人に申し訳ない”って。ベッドに横たわったままそう話す彼女を、私は思わず抱きしめていた。涙が出ちゃった。知らぬまに私は私の手で、彼女を追いつめ苦しめていたのよね。自分の娘のように思っていたのに……。
 自分は善意のつもりだったのに。なんてことだろう、と思った。ひょっとすると、いままでにも彼女と同じように、私に教わることで苦しんだ人がいたんじゃないのだろうか……。そう思ったら、ゾッとした。それで、そのとき決心したわけ。もうこんな形でテニスを教えるのはよそうって。弟子なんて金輪際とらないって……」

 沈黙がさした。
 自転車の車輪の回転がうつろに響いた。
 新田がおそるおそる尋ねた。
「それがまたどうして僕を……? もしかして、晴美がタツエさんに強引にお願いしたからでは……?」
 タツエは、あいまいな笑みを口もとに浮かべた。
「そうね。そうだけど、違う」
「“そうだけど、違う”?」

 途惑う新田を、タツエは横目でおもしろがるように見た。
「じつはね、いまの話には続きがあってね。彼女は、その直後に結婚して引っ越してしまったんだけど、結婚5年目の今年になって初めての子供が産まれたの。手紙で知らせてくれたんだけど、その中で彼女はこんなことを書いているの……」タツエは、前方に広がる鼠色の空をわずかに見上げ、まるでそこに手紙の一字一句が刻まれているかのように目を凝らすと、朗読するように言葉を発した。「……“出産は女にとって大事件だとよく言われますが、まったくそのとおりでした。子供が産まれるまでの数時間、私は本当に死ぬかと思いました。あまりの痛さに気を失いかけたのですが、そのとき、なぜかあの軽井沢のことを一瞬思い出したのです。あの茶色いコートと、飛びかうボールと、そしてタツエさんの怒鳴り声。ああ、そうなんだ、と私は思いました。あの数日間が、私のいままでの人生の中で、最も一生懸命に生きたときだということに気がついたのです”……と書いてあった」

 タツエはいったん言葉を切り、仰ぎぎみの顔を横に向けると、新田の表情をうかがった。新田は、晴美が理沙を産んだときのことをぼんやりと思い出しながら、ほとんど無意識にうなずいていた。

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