2005年09月21日

ラブ・フォーティ 第110話 〜ペダル〜


(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )

第109話より続く

 タツエは顔を進行方向に戻すと、微笑みながらふたたび口を開いた。
「彼女の手紙を読み終わったとき、なぜか私の体の中からとても気持ちのいい笑いがこみ上げてきたの。そして、笑っているうちに心がすっと軽くなっていくのがわかった。
 うまくは言えないんだけど、“人間は強いんだ”って思えたの。軽井沢のことも、子供のことも、彼女は彼女なりに命がけになるたびに幸せを大きくしているように思えた。そう思えたら、私が彼女の心中(しんちゅう)を勝手に想像してめそめそ心配したことが、とても愚かなことのように感じられてね。
 そして、ふと思ったの。もしかりに彼女がまたテニスを習いたいと言ったら、私は5年前と同じように厳しくレッスンするんじゃないだろうか、ってね。だって、彼女は彼女の道を見つけてしっかり歩いているんだもの。ならば、私は私なりの道を堂々と歩かなければいけない、と思ったのよ」

 言い終わるなりタツエは深呼吸を2度3度くり返した。
 新田は、その心地よさそうな呼吸音を、北風の中に聞きながらそろそろと自転車を手押していた。
 タツエがふたたび話し始めた。
「彼女から手紙をもらったのが、今年の6月。その直後に新田さんの奥さんに出会ったの。そしていきなり“テニスを教えてほしい”って言われたときには、まるで神様が私の気持ちを試しているようで、ちょっと気味が悪かったわね。おまけに、あのときの晴美さんときたら、それはもう強引でね」
 タツエはわざと大げさに新田の顔を覗き込んだ。
 新田は苦笑しながら軽く肩をすぼめた。
 どちらからともなく軽やかな笑い声がわきあがった。

 ふたりが歩いていた裏道が、表通りにぶつかった。
 タツエが立ち止まり、新田もそれに従って歩を止めた。前方に横たわる2車線の道路を、車が左から右へ、右から左へと通り過ぎていく。
 タツエの表情が改まった。
「私は、私の道を堂々と進むだけ。これからも私は私流の教え方をする。もちろん新田さんにも、自分の道を選ぶ権利がある。とくにいま、私のコーチとしての“前科”を知ってしまった以上、新田さんはそのことを踏まえて自分の道を選ぶべきだと思う。これからもレッスンを受けるということは、私がそういうコーチだということを承知した、ということになるからね。さてと……」タツエは、顔を左へ右へゆっくり振り向けながら言った。「左へ行けばテニス場、右へ行けば新田さんのお宅の方角。どちらへ曲がるかは、新田さんの自由。それが新田さんの道ということになるわね」

 タツエは新田を見ることなく、まっすぐ前に向かって顔の動きを止めた。
 新田はタツエの横顔をそっとうかがった。ドキッとした。新田には、いまのタツエが、強くて弱い、弱くて強い、ひとりの母親のように見えるのだった。ふと思った。タツエさんはずっと独身を通してきたと言っていたが、本当はどこかに子供がいるのではないだろうか。ひょっとすると、手紙をくれた“彼女”というのは、じつはタツエさんの本当の娘ではないか……。
 突然、新田の胸の中が熱くなった。その熱さが体を動かした。新田は自転車にうちまたがると、ペダルをいっきに踏みおろした。自転車は左へ急カーブし、またたくまに加速した。

 みるみる遠ざかる新田の後ろ姿に、タツエが叫んだ。
「新田さん! そっちはテニス場よ!」
 新田は振り返ることなくペダルをこぎながら叫び返した。
「わかってますよ! 覚悟ならずっと昔にできてます! お先に!」
 さらに遠ざかる新田を目で追いながら、タツエはおもむろに自転車に腰をのせた。それから口の端をちょっとだけ持ちあげて微笑むと、力いっぱいペダルを踏み込んだ。
 一直線の道路のかなた、もうほとんど見えなくなった新田の背中に向かって、タツエは心の中でつぶやいた。
 ――新田さん、あなたに会えて本当によかった。

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