2005年10月10日

ラブ・フォーティ 第129話 〜サッカー〜


(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )

第128話より続く

 帰宅が予定より1時間も遅くなってしまった。「自転車を盗まれたので歩いて帰ってきた」とつい出まかせに言うと、「あしたから壁打ちは歩いて行くの?」と晴美が顔を曇らせた。新田は「心配することはない」と言いながら、それがどういう意味で言っているのか自分自身わかっていなかった。自転車は本当はあるからなのか、それとも、あしたから壁打ちはしないつもりだからなのか。

 夕飯のあと、理沙が風呂に入ったのを機に、新田は、先ほどのタツエとのやりとりを打ち明けることにした。どっちみち晴美にもわかってしまうことなのだから、破門になったことはきょうのうちに言って、さっぱりしたかった。
 晴美は身じろぎひとつせずに聞いていた。自転車こぎをし始めたとき、うっとうしいと言ってばっさり髪を切り、ショートヘアーにしたその顔がじっと新田を見つめていた。つい数ヶ月前まではふっくらとしていた容姿が、毎日の自転車こぎで鍛えられ、いまやアスリートの片鱗さえ匂わせている。その印象は、単に肉体的なものではなく、彼女の内面――酷寒の貯水槽での責務をやり遂げてきたその根性――が表ににじみ出ている感じさえするのだった。毎夕1時間以上にもおよぶ新田の壁打ちは、結局彼の妻さえも変身させていた。

 夫の話を静かに聞き終えると、晴美は質問した。
「どうしてダブルスが嫌いなの?」
 新田は、自分の考えを整理しながら、順を追うようにして話した。
「テニスが面白くなるにしたがって、なぜ僕はこんなにテニスを好きになったんだろうと考えるようになった。考えているうちに、自分が心から楽しいと思っているのはシングルスのときであって、ダブルスのときはそうでないことに気がついたんだ。これには驚いた。驚いたし、悩むことになった。
 今度は、なぜシングルスが好きで、ダブルスは嫌いなんだろうと考えるようになった。ゲームをしながら考えた。周りを見まわすと、ほとんどのコートがダブルス戦を楽しんでいる。和気あいあいとしている。その中で、この僕だけはいつもシングルスをしたいと思っている。なぜなんだろう、と。
 いろいろ考えて、結論のようなものを、ついに見つけた。それを、きょうタツエさんに言おうとした。だけど聞いてくれなかったよ」
 新田は寂しそうな笑みを浮かべた。

「何だったの?」
「要するにチームプレイはイヤだってことさ。チームワークはうんざりなんだよ。少なくとも僕はごめんだ。そういうことは仕事でさんざやらされているからね。互いを考え、互いに気をつかい、あるときは助けられ、あるときは助け、あるときは足をひっぱってしまったり、逆にひっぱられる結果になったり……。そういうのはうんざりなんだ。そういうのは会社だけで充分だ。
 だからその反対に、たったひとりテニスコートに立って敵と戦うとじつに気持ちいい。誰のことも考えずに好きにやればいいんだから。勝てば自分を誉め、負ければ自分を叱る。誰のせいでもない。自分ですべて解決する世界。そして一騎討ちする。シングルス戦というのは、僕にとってそういうものなんだ。だから好きなんだと思う。だからテニスに惚れたんだと思う」

「じゃあ、野球とかサッカーだったら長続きしなかったわね」
「たぶん、そうだろうな」
「ゴルフは?」
「嫌いじゃない。でも、テニスのように直接敵を叩きつぶすような痛快さはないよな。ゴルフはスコアを通して敵をやっつけるゲームだけど、テニスは、ボールというこぶしで、本当に殴り合っているようなものだもの。ゴルフより野蛮だよな。テニスのシングルス戦は、孤独で野蛮だから好きなんだろうな。だから、きょうまで続いたんだと思う」
「そのことを、タツエさんは聞いてくれなかったわけね?」
「まあ、そういうことになるな。わかる気もする。あの人はテニスのすべてを愛しているから。僕みたいな新参者が生意気にテニスをどうのこうの言うのが許せないんだと思うよ。だから“破門”されたんだろうな」
「許してくれないかしら?」
「あの人の性格だと、難しいだろうな」
 ふたりは顔を見合わせ、同時にため息をついた。

 晴美が背筋を伸ばし座りなおした。いつまでも落ち込んでいても仕方ないでしょ、と言わんばかりだった。
「で、これから、どうするの?」
「“どうするの”って……」
「まさか、やめるわけじゃないでしょうね?」
 にわかに空気が緊張した。それは妻が夫に質問している雰囲気ではなかった。まるで、ひとりのアスリートが、もうひとりのアスリートに、体を張って問うているかのようだった。

 新田は口ごもった。
「しかし、コーチがいないとなると……」
「もしタツエさんが金輪際ダメとなると、ほかの人を探すしかないわね」
「え?」
「“え?”って……」晴美は視線を尖らせた。「こうなったら、もっと強くなってタツエさんと勝負するしかないんじゃないの? 弟子の話に耳も貸さないような師匠には、力でわからせるしかないでしょ? あなたが強くなれば、あなたの言い分を聞いてみようって気にもなるでしょ? どんなに立派なこと言ったって、弱いヤツの言うことなんて誰も聞いてくれないわよ」

 新田はムッとして黙り込んだ。
 ふたりはにらみあうような形になった。
 沈黙が流れた。
 遠く風呂場から理沙の楽しげな鼻歌が聞こえてくる。
 晴美は腕組みした。
「どうするの?」
 新田も腕組みをすると、顔をひき締めた。
「わかったよ。強くなってやる」

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