2005年10月19日

ラブ・フォーティ 第138話 〜ピリピリ〜


(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )

第137話より続く

 晴美は、自分でも驚くほど穏やかな表情で、タツエを見つめ返していた。すると、まるで鏡にでも映したかのように、目の前にいるタツエの顔にも穏やかさが満ちていった。

 タツエのしゃがれた声が、低く静かに流れた。
「上野に着いた私たちは、当てもなく、しばらく駅の周辺をうろついていた。そうしているうちに、身なりのいい老人がにこやかに声をかけてきたの。まるで天気の話でもするように、のんびりとした調子で“こんなことを聞いては失礼かもしれんが、ひょっとすると、あんたたちは家出じゃないのかね?”って言うの。私たちは軽井沢から逃げてきたばっかりで、とてもピリピリしているはずなのに、その老人の柔和な雰囲気に触れたとたん、なぜかヘナヘナっとしてしまって、その場から逃げ出すことも忘れてうなずいてしまったの。
 すると、老人はとても心配そうな顔をして“若いときはそういう気持ちになることもあるが、早まってはいかん。東京は危険だから、もし泊まる所で迷っているのなら、私が宿を紹介してあげるから、そこで1日ゆっくり考えてみてはいかがかな?”って言うの。

 結局、私たちはその老人の案内で、ある宿に泊った。お風呂があんなに嬉しいと思ったことはないわね。家の中でゆっくり食べるご飯も、なんだかとても久しぶりのようで、おいしかったのを覚えてる。ふたりとも浴衣になったらとても変な感じで、しばらく深刻な気持ちを忘れてクスクス笑い合ったもんだった。少し落ち着いたふたりは、老人の言ったように、あしたもう一度自分たちのことを考えてみようということで、寝ることにした。その夜は、前夜一睡もしていなかったこともあって、ふたりとも気絶するように、それぞれの布団に眠ってしまった。
 そして翌朝、私たちは起きるなり、とんでもない事態を目の前にして、呆然とすることになってしまったの」

 タツエは言葉を切ると、空気を漏らすように静かに笑い始め、それが次第に声をともなった笑いとなって高らかに響いた。まるで、その朝の出来事を思い出せば思い出すほど呆れかえってしまう、といったタツエの様子に、晴美は黙したまま目をみはった。
 タツエはひとしきり笑うと、「ごめんなさいね。もう笑うしかないような、とんでもないことだったの」と言いながら、双方のグラスにビールをついだ。膨れあがるビールの泡を見ながら、タツエは声を落ち着かせてふたたび話しはじめた。
「目を覚ましたら……、私たちの荷物も洋服も何もないの。全部なくなっていたのよ」
「……泥棒?」

「そういうことね。いま思い起こせば、あの老人と旅館はグルだったような気がする。というのは、私たちの部屋に駆けつけた仲居さんが、まず最初に言ったことは“警察に知らせたいけど、そうすると、あんたたち困るんでしょ”って、まるで念を押すように言ったの。家出人の弱みを突くような言い方だった。おそらく、あの気の良さそうな老人がカモを見つけ、宿に連れてきて、そのカモが安心して寝ているすきに、誰かが盗みに入る――という段取りなんじゃないかしら。といっても、それはいまになって思うことであって、あのときは、ふたりとも茫然自失としてしまって、何も考えられない状態だった」

「それで、どうしたんですか?」
「その宿にあった古着のようなものをもらって、それを着たの。私も彼も、前日までは別荘にふさわしい上等なものを着ていたんだけど、いっぺんでみすぼらしい格好になってしまった」
「お金は?」
「彼のお金は全部盗まれてしまった。ところが、私のほうはお札を靴下の中に隠していたんで、それが盗られずに済んだ」
「靴下を履いて寝ていたんですか?」
「そうなの。子供のときから父に“運動選手は、足を冷やすな”って言われていて、だから夏でもたいてい靴下を履いて寝ていたの。父の言いつけが妙なところで役立ったわけ」

 タツエはうっすらと笑みを浮かべたが、その表情は長く続くことなくみるみる曇っていった。そして、タツエは悔いるようにつぶやいた。
「でもね、それが結果として良かったのかどうか、わからない。ふたりとも全部盗まれてしまったほうが、よかったんじゃないかと……」

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