2005年11月10日

ラブ・フォーティ 第160話 〜ハンドル〜


(最初からお読みになりたい方はこちら→【ラブ・フォーティ 第1話】 )

第159話より続く

 4月21日、金曜日。テニス大会前夜。
 新田はいつもと同じように“お化け工場”で、晴美の自転車のライトに助けられながら、日没後まで壁打ちに励んだ。ストローク、ボレー、ロブ、スマッシュ、サービス……。壁でできる練習メニューをひとつひとつ丹念にこなした。
 新田は黙々とボールを打ち続け、晴美は黙々と自転車をこぎ続ける。きょうがテニス大会の前日だからといって、ふたりの間では特別何も変わらない。

 練習が終わると、新田は上半身裸になって汗をぬぐい、その間に、晴美にきょうの感想を聞く。それからふたりは帰る。
 貯水槽から上がり、中庭を横切り、工場裏手の塀の“秘密の穴”から外へ出る。そして塀に沿って裏から脇、脇から表通りへと戻る。ふたりの自転車は、正門前に留めてある。そこで新田は足を止めると、錆びきった鉄柵の門扉をしばらく見つめた。鉄柵の向こうに見える工場棟の、さらに向こうに中庭があり貯水槽があって、そこで毎朝毎夕鍛練し続けてきたことを、新田は改めて思いおこし噛みしめてみた。できることはすべてやった、と新田は思った。いろんなことがあったけれど、それらを乗り越え、自分はいまここにいる。妻も文句ひとつ言わずに本当によく手伝ってくれた。娘も協力してくれた。あしたが終わったら3人で温泉にでも行こうか、と新田は思う。思いながら自転車にまたがった。振り返ると、晴美が微笑んでいた。まるで、新田が心の中で思っていることをすべて承知のうえで微笑んでいるかのように見える。

 新田が照れるように笑みを浮かべた。
「さてと、帰るか」
「そうね。あしたの朝は、どうするの?」
「いつもと同じさ」
「壁打ちに来るの?」
「ああ、いつもと同じ」
 新田の自転車が走り始め、そのあとを晴美の自転車が追った。
 お化け工場周辺の人家まばらな道は、やがて密集した住宅街に入り、さらに駅周辺の繁華街へと賑やかさを変える。ふたりは縦列で黙々と走る。

 突然、新田の自転車が、いつものコースから外れた。家の方角ではなかった。晴美はすぐにピンと来た。それもいいかもしれないわね、と思う。晴美は黙ってついていくことにする。
 路地を右へ左へ折れながら走り続けると、ひょいと目抜き通りにぶつかった。新田は路地口でブレーキをかけ、足を地面に踏みおろした。顔をわずかにねじった。斜め前方に向けた視線の先には、エリーゼの看板がこぢんまりと輝いていた。
 晴美は、夫から2メートルほど後方に停止すると、息を凝らした。
 新田はエリーゼの戸口をじっと見つめた。
 新田とエリーゼの間には、かなりの交通量の2車線道路が横たわり、その両脇を商店街が賑やかに連なっている。人や車がひっきりなしに行き来していて、そのたびに新田の視線は寸断される。
 スルスルと時間は過ぎていった。

 晴美は辛抱強く待った。
 夜が加速するにつれ、人の流れも車の流れもせっかちになっていく。それに反し、新田は完全に動きを失っていた。晴美の目には、夫の姿が、まるで川の流れに阻まれ、対岸に行けずに途方に暮れている旅人のように見えた。
 晴美が後ろから声をかけようとした。と、そのときだった。不意に新田がハンドルとともに振り返った。
 振り返るや新田はギクッとした。晴美が後ろにいることをすっかり忘れていたのだ。“お化け工場”から走り始めて数分もたたないうちに、新田の頭の中にエリーゼのことが浮かびあがった。とたんに、ほかのことが消し飛んでいた。それ以来、新田は自分ひとりのつもりで行動していた。

 新田は、引きつる表情を無理やり動かして、言葉を吐いた。
「どやされるのがオチだよな。帰るか」
 きまり悪そうに苦笑しながら、ペダルに足をかけた。
 晴美は小首をかしげて言った。
「そうかしら? 私はそう思わないけれど」
「きょうはよそう。そのほうがいい」
 自分に言い聞かせるようにつぶやくと、新田は自転車をUターンさせ、いま来た道を戻り始めた。晴美はそれ以上何も言わず、ふたたび夫のあとについて走り始めた。
 暗がりをひた走る夫の後ろ姿を追いながら、晴美は考えた。
 ――いま私にできることは何だろうか?
 ペダルをこぎながら考えた。
 考えているうちに家に着いた。

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