2006年11月05日

連載小説「夜になったら空を見よう」 第2話


(最初からお読みになりたい方はこちら→【夜になったら空を見よう 第1話】 )

第1話より続く


 名前は? 職業は? どこから来たんだ? いったいここで何をやってんだ? 
 これって、ひょっとして記憶喪失ってやつ? オレはスーツのポケットをひとつひとつさぐってみた。携帯電話も財布も免許証も何もなかった。もう一度スーツの内ポケットを確かめてみようとしたとき、胸もとに導かれた血まみれの右手の平に目がとまった。何なんだ、この血は? 足もとに目を落とし、さらに周囲に視界を広げた。

 木の根本に群がるような下生え、折れ落ちた枝は腐るにまかせ、古くからの落葉が腐葉土となって全体に広がり、湿っていじけた匂いを漂わせている。オレはあてどなく周辺を踏み歩いてみる。くすんだ視界の、あちこちに細く陽が射し込んでいる。その一筋の光線が何か小さな金属物をとらえ、光を反射させていた。歩み寄ると、腐った枝に包丁が突き刺さっていた。包丁の握りと刃に血がこびりついていて、わずかに金属の肌を残した部分が陽を受けて光っていたのだ。血液はまだ乾ききっていない。オレは握りをつかみ引き抜いた。腐った倒木から抜いた包丁は、気分が悪くなるほどオレの手にピタリと馴染んだ。
 血染めの包丁と、誰だかわからない自分と、どこだかわからない奥深い森。オレって、なんかヤバイ人間なわけ? 人殺し……? 

 周囲に目を配りながら包丁を土に埋め、草の葉で右手の血をできる限り拭い取り、とにかくこの場から離れることにした。森を出ないことには、どうすることもできない。
 オレは歩いた。
 陽が暮れ始めた。おそらく数時間たったはずだが、森の外側に近づいているという気配はまるでなかった。途中、か細い岩清水に行き当たり、のどを潤すことができた。血痕を洗い流した。背中の痛みがやわらいでいることに安堵し、何かを考える気持ちになると、ふと包丁のことを思い出し後悔した。包丁があれば、刃の部分を洗うことで鏡の代わりになったはずだ。そしたら、自分がどんな顔をしていて、どんな人間なのか、自分が何歳くらいなのか多少なりともわかったかもしれない。
 オレはいま、自分がどんな顔をした人間なのかさえもわからない。何者なんだ、オレは?

 森の夜は早い。昼の気温から推測して、いまは夏頃のようだが、この夜は涼しさを越えて寒さを険しくしている。そのせいか、鳥の声も虫の音も聞こえない。静まり返ったどでかい墓場で、正体不明の自分を埋葬するように、古木の根本にできた洞(ほら)に体をねじ込んで夜をやり過ごすことにした。空腹と寒さをしのぎながら、思い出せる限りのことに集中した。

 ごく普通の、というよりも安物のスーツに合成皮革の黒い靴。手の甲や腕の皮膚を見た感じでは、三十歳……、もしかすると四十歳くらいかもしれない。あの包丁。刃渡りは二十センチほどあった。自分の体から出血していないのだから、あの包丁の血は、誰かを刺したものなのだろう。ということは、やはり人を殺したのか。しかし、何も持ち物がないというのはヘンじゃないか。何か、もっと込み入った事情というかトラブルのようなものに巻き込まれているのではないだろうか。オレはいったい誰なんだ……?
 迷路をさまようように考えあぐねているうちに、いつの間にか大樹の洞(ほら)に抱かれるように眠り込んでしまった。

 夢を見た。何人もの人間に謝っていた。相手が誰なのかはわからない。ただひたすら謝っている。
「何してんの?」
 誰かに聞かれた。
 謝るしかないじゃないか、それしかできないんだよ、とオレは思った。
「おーい、この辺で死なれちゃ困るんだよなあ」
 その声は、夢の柔らかさをこわす固さでオレの耳に突き刺さった。ハッとして目を覚ました。
 森はすでに夜明けを迎え、薄明かりの中に、その少年は立っていた。目が慣れてくると、彼の右脇には猟銃らしきものが抱えられていた。



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