2005年12月10日

灯台がサンタクロースに


サンタクロース灯台娘が幼稚園児だったころ、僕と2人でバスに乗っていたら、その横をコンクリートミキサー車が通った。車の後ろにコンクリートを混ぜ合わせる機械が搭載されていて、たえずグルグル回っているあれだ。
娘はめざとく発見すると、僕に「あれはなんのクルマ?」と聞いた。僕は眉間に軽くしわを寄せ、今から話すことはとても大切な話なんだぞと言わんばかりの表情をこしらえてから言った。

「あのクルマのうしろでグルグル回っている中には、大量のポップコーンが入っていて、エンジンの熱であたためながら、ゆっくり回しているんだ。すると、中で、ポーン、ポーンとポップコーンが次々にふくらんで、お店に着く頃には、ちょうどいいおいしさになっているんだ」
娘は感心した目で「へえええ、おいしそうだね」とナットクしていた。

娘が小さかった頃には、そのようなウソをよく仕込んだものだけれど、さすがに高校生ともなると、ハンパなウソでは通用しない。この前も「初期のパソコンは、ICの電導率が上昇しにくいので、ストーブであたためたりホカロンを貼って使ったんだ」と言ったら「真空管じゃあるまいし」って鼻で笑われた。くやしい。

で、上の画像(鮫島弘樹氏撮影)だ。
もし娘がいま2〜3才だったら、僕はどんなウソで遊ぶんだろうか?

「夜になると、あのサンタさんの頭がピカピカ光るんだよ。すると、暗くなってもトナカイが場所を迷わずに走れるから、プレゼントが届くんだよ」

ちなみに、本当のところは、毎日新聞(12月9日付)にこう説明がなされている──
『福岡市の博多港防波堤にそびえ立つ灯台(高さ約19メートル)がサンタクロースに“変身”し、乗船客らの目を楽しませている。福岡海上保安部の安全運航PRで25日まで。この灯台はもともと赤色で、目や口は家庭用のマット、眉毛や鼻、あごひげは荷作りに使われるビニール製の白いひもで作った。にこやかな優しい表情に仕上がっている』とのこと。

確かに。


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2005年11月02日

修学旅行


娘の手作り京菓子娘は都立高校の2年生で、つい先日修学旅行へ行ってきた。

今年は旅行費の制限が、例年よりも低く定められるという事情があり(詳細は略しますが)、結局、娘たちは京都・奈良へ行ってきた。
いまや高校の修学旅行といえば、私立あたりではオーストラリアだカナダだヨーロッパだと豪勢極まる中、新幹線で数時間の旅先とは、親ながらちょっと不憫に思えた。
ま、いろいろな事情を鑑みたうえで、先生・父母・生徒等による検討・合意のうえで京都・奈良旅行へ行くことになった。

別の学校(私立)の、娘の友だちで「オレんとこなんか、ショボイのなんのって、国内だし、ま、オキナワへ豪華客船での旅てっゆーから、許すってゆーか、あきらめるってゆーか……」と、怒ってんのか喜んでんのかわかんない心のドリブルに、ボクはついスライディング・タックルをかましたくなってしまったけれど。

とにかく、そして、娘は修学旅行から帰ってきた。
3泊4日の旅行は、ずいぶん疲れたようではあったけれど、荷物の中からヒョコンと出てきた和菓子。
前もって娘が旅程に選んでいた『京菓子手作り体験』での成果だ。

食卓の上の小さな菓子(2種類、1個ずつ)を、しばらく眺めてから、そおっと切り分け、娘と妻と僕で食べた。

ほんの一口ずつの大きさ。いや、小ささ。
気を抜くと、味の全貌をつかみそこねるほどの少量を、みんなで一口ずつ。

ほんのりと、上品に、華奢な形に甘味はつつまれ、じつにおいしかった。
甘みを威張らないところが、粋か。

僕は「おいしいね」と言って、娘は「うん」と言った。
「これ、本当に自分でつくったの」と僕は聞き、娘は「うん」と言った。
妻が「じょうずにできるものね」と言って、娘が「へっへっ」と言った。

地味かもしれないけれど、たぶん、いい修学旅行を楽しんできたのだと思った。


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2005年08月17日

父として思うこと


栗お盆を郷里で過ごしていた妻と娘が、きょう帰ってきた。
僕はあいにく仕事で机を離れることができず、家で留守番をしていた。

「いなかは、やっぱりいいよね」「そうね、遊びならね」とか何とか家の中は急にかしましくなり、さっそく大きなバッグの中身が解体され始めると、お菓子やら何やらがワラワラと床に溢れだす。妻は妻の、娘は娘の所持品がそれぞれの周りに広がっていく。

僕が、そこを通りかかった時だった。
背中を向けていた娘が振り返り、「はい、お父さん、おみやげのお菓子!」と言ってポンと投げてよこした。僕はキャッチすべく手の平を差し向けた。
さて、この場面からは、映画『マトリックス』のスローモーション状態のような感じで読んでほしい。
娘「おーとーおーさーーん、おーーかーーしーーー」
僕「サーンーキーユーーー」
手を出した…僕は…ふと………、娘の…目の…中の………、悪魔の…輝きに……、気づ…いた……。とっさ…に……、飛んで…くる…お菓子を…、凝視…した……。
僕の心の声「ヤ〜〜〜ベ〜〜〜。クリだ〜〜〜!」
僕は手を引っ込めた!
イガ栗は、ギリギリ僕の脇をスルーした!
娘が田舎の雑木林でとってきた、青々としたイガイガ(上の画像)。
床をコロコロコロコロ………

危機一髪!
僕は小さく悲鳴を漏らして言う。
「油断できねーーー」
娘は、うれしそうにケラケラ笑って言った。
「でも、カワイイ栗でしょーが!」

日増しに強敵になっていく娘。
もっとガードを固めなければ、とあらためて思う父であった。


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2005年07月28日

ねずみの家族


ねずみの家族
どう? ちょっと可愛いでしょ?

これ、じつは娘が幼稚園の時に、娘が自分ひとりでこちょこちょ作っていたものなんですよね。誰に教わるでもなく、ひとりで紙粘土をこねて、造形して、色を塗って、ニスを塗って、あれま、こんなものを作って……。親である僕と妻は、娘の作品にびっくりした。

この「ねずみの家族」を作ってから10年以上たって、すでに娘は高校生になる。

はあー、もう10年もたってしまったのか……(と、ちょっと感傷的なオヤジ〈笑〉)

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2005年07月27日

雨の西麻布


引き出物先日、僕の友だちの結婚披露パーティがあった。

僕は新婦の知り合いとして招かれた。
新婦は、僕と同じコピーライターで、歳は僕よりはるかに若く、気分的には“姪(めい)”の結婚を目の当たりにして「アイツも本当に大人になったもんだ」とひとり感慨にふける叔父さんという心持ちだった。

西麻布のしゃれた店でパーティがあり、クライマックスは客全員による“新郎新婦キッス”のリクエストに応じて、何度も何度も何度もふたりは互いのほっぺにチューを炸裂させ、大盛り上がりの中でお開きとなった。

帰りぎわ、お店のエントランスで新郎新婦から引き出物をいただいた。赤い可愛いパッケージ。僕は、それをバッグに入れて、雨の西麻布(笑)を六本木方面に足を向け、帰途についた。

六本木から大江戸線に乗り、運良くシートに座れた僕は、さっそく赤いパッケージを開けた。そのおしゃれな装いからして中身はチョコレートと決めこんでいた僕の思いを、それはいっきに粉砕。

「ヤケた?」

メッセージ入りおせんべいかよ! 人目もはばからず、僕は噴きだしてしまった。はいはい、今夜はじゅうぶんに妬けました。せんべいもほどよく焼けてるしな(笑)。

さすがは、わが友だ(笑)。これからも、その勢いで人生を突っ走ってくれ!

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用意周到


チャミスル“用意周到”という言葉がある。
たとえば、あすの朝は寝坊できないとなると、目覚まし時計をセットするわけだけれど、1台だと万一それが故障するとヤバイということで、2台いや3台ほど枕元に仕掛け、それだけでは心配だからというんで、友だちにモーニングコールを頼み、その友だちを信じきれずに自分の親にまでモーニングコールを強制し、さらにそのうえで、一睡もしないで朝を待つ……くらいのことを“用意周到”と言う。(←やりすぎ〈笑〉)

“用意周到”とは、念には念を入れて、さらに念を入れ、しかも念を入れること。そういう“用意周到”な出来事というのは、そう滅多にない。しかし……

ここからは、妻と僕の会話(僕は風呂に入っていて、妻は外から話しかけている、というシチュエーション)だ。

妻「お風呂から出たら、一杯飲むの?」
僕「そうだね。ウーロンハイでいいや」
妻「ジンロを買ってきたんだけど……」
僕「はあ? ジンロ? どうしたの急に?」
妻「たまにはいいかなって……」
僕「たまにはいいけど、なんでまた、ジンロを?」
妻「『チャミスル』って、おいしいらしいのよ」
僕「チャミスル?」
妻「いま話題よ。知らないの?」(←用意1)
僕「いいや。で、本当に、おいしいの?」
妻「チクタン……竹の炭で3回ろ過してるから、まろやかなんだって」(←用意2)
僕「竹炭ねえ……。うまいのかなあ?」
妻「韓国ナンバーワンのブランドなんだから、おいしいわよ」(←用意3)
僕「ふーーーん。韓国ナンバーワンねえ……」
妻「チャン・ドンゴンだって飲んでるんだって! おいしいに決まってるじゃないの!」(←用意4)
僕「チャン・ドンゴン!?」
妻「そうよ! あんな誠実そうな人が飲んでるんだから、まちがいなくおいしいわよ!」(←用意5)

日本の主婦の心をノックするには、このくらいの“用意周到”さが必要かもしれない(苦笑)。1度ならず、2度、3度、4度……と、ノックする用意周到さ。

風呂から上がって、食卓を見れば、そこには『チャミスル』が。
ボトルネッカー(上の写真の白い部分)には、きっちりと品質訴求(竹炭3回ろ過)、ブランド訴求(韓国No.1)、さらにはイメージ訴求(チャン・ドンゴン! いい男!)で強力プッシュしている。
じつに、用意周到。僕はともかく、妻はナットクしきったようだ。

で、味はどうかというと、僕には「軽い酒」だけれど、妻には「ソフトな酒」のようだ。
このニュアンス、いかが?

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2005年07月26日

父の超能力


6月の第3日曜日は、父の日だ。

僕の父は去年他界しているので、面と向かって何かしてあげるということはもうできない。

できないとなると、不思議なもので何かしてあげたくなる。
すると言っても……。書棚に飾った遺影のほこりを払ってあげるくらいしかできないのだけれど、その額の中の父の顔に指が触れるたびに、「オレって、オヤジとあまり話さなかったなあ」などと思い出してしまう。
けっして僕と父の仲が悪かったわけではなく、ただ単に父が口数の少ない人だったからだ。それに、家にいるときはたいてい図面をじっと見つめている人で、子供が割り入る隙がなかった。父は電気系の技師だった。

僕は僕で、ひとりっ子にありがちな、犬や小鳥や熱帯魚が友だちという子供で、それはそれなりに、内省的な技師の父と内向的な動物好きの息子は、まあ、双方困ることもなく、付かず離れず暮らしていたと言うべきか。

口べたな父が、時として言葉を使わずに愛情表現を示すことがあった。それが、みやげだ。僕が日ごろ母にねだっているものを、不意に買って帰ってくるのだ。
幼いときの最大のプレゼントは、荷台つき三輪車。小学校低学年の時の忘れえぬプレゼントは、ブリキ製の大型鉄腕アトム。3年生の時は、当時としては超高級品だったはずの子供用エレキギター。さらに4年生で、釣り道具一式、などなど……。

子供を私立の小学校に通わせていた我が家は、プレゼントからも察せられるように、まずまず裕福な暮らしをしていた。ところが、ある日突然、それが壊れた。
父の事業が行き詰まり、貧しさの中へ急降下していった。それが5年生の頃。さすがに子供の僕でも、家の中の異変に気づく。僕の口から欲しいものが出なくなった。母が聞いても「特にない」と答えるようになった。
でも、本当はあった。顕微鏡や、大型帆船のプラモデルや、本革のグローブが………。でも、いっさい口にしなかった。

ところが、貧しいながらも父は今までと同じように、不意にプレゼントを買ってきた。しかも、それは……
顕微鏡………、大型帆船のプラモデル………、本革のグローブ………!?
いったいこれは、どういうことだ!?
小学生とはいえ6年生ともなれば、このありえない出来事に真剣に驚く。母にも父にも言っていない欲しいものを、なぜ父は知り得たのか? まったく偶然なのか? いやいや、それはどう考えてもおかしい。偶然が多すぎる。これは、何かもっと不思議な力が働いたのではないか、と僕は思った。

直接父に聞いてみようとも考えたのだけれど、それはできなかった。なぜなら、プレゼントに関して聞くということは、貧しくなりつつある我が家の急所を突っつくような気もしたし、また家の長たる父の気持ちを傷つけることになるかもしれない……と、漠然とではあるけれど、子供心にも僕は恐れた。

父はなぜ、僕の心の中を知り得たのだろうか?
結局、父には何も聞けぬまま、謎も解けぬまま、中学校へと進んだ。私立から公立へと変わり、暮らしはさらに困窮し、その頃になると父のみやげもなくなった。
したがって、父の“超能力”も発揮されることはなくなった……

じつは最近まで、この一連の出来事をまるごと忘れていた。
なぜ父は、僕の欲しいものを買うことができたのか。 
僕はけっして父にも母にも言っていないのに。
なぜ……
それらすべて──その出来事も、その疑問も、その真相も、封じたまま忘れていたのだ。
すべてを忘れていたのだ。
もしかすると、あの頃の貧しさを思い出したくなかったのかもしれない。

ところが、つい最近、あることから父の“超能力”に思い当たる出来事が起こった。
それは、床屋での出来事。
数年前まではちょっとオシャレな美容室でカットしていた僕も、すっかりものぐさになってしまい、最近では近所のフツーの床屋で済ますようになった。すると、そこには地元のお年寄りから子供までさまざまな客がやってくる。

ある日曜日、僕が順番を待ちながらマンガを読んでいると、ちょうど散髪中の小学生が、店主と親しげに話していた。
地元の子供で顔なじみなのだろう。学校のことを親しげに話している。6年生にもなって、ランドセルなんて格好悪くて背負ってられないと、その子は不満をこぼしている。
店主は子供の扱いに慣れていて、子供の機嫌が悪くなり始めると、別の話題に移る。その子の名前は「シマくん」という。

「ところで、シマくんは、何になりたいの?」と店主。子供はふくれっ面になって「わかんない。前はサッカー選手だったけど、いまはわかんない」と言って、頭を横に振ろうとする。店主はあわてて小さな頭を制し「そうか、そうか。じゃあ、シマくんは、何が好きなの?」と聞く。子供はやわらいだ表情で答える「ラジコンカー。今度、欲しいのは、田宮の……」

と、そこまで彼らの話に耳を傾けていた僕は、「あっ!」と声を発しそうになった。
今まですっかり忘れていたことを思い出したのだ。子供の時にイヤイヤ通っていた床屋。そこで僕は店主になだめられるようにしながら散髪に応じていた。近所のガキたちの短髪と違って、髪を横わけにしていた僕は、私立学校に通っていたこともあって、その店ではいわば王子さまのように扱われていた。

けれども小学校5年になった“王子さま”は、すでに貧窮の一途をたどっていた。ところが、そんなこととは知らない床屋の店主は、何やかやと尋ねてくる。「この前はエレキギターを買ってもらったって言ってたけど、今度は何を買ってもらったの?」とか「お金に困らないから、いろいろ買ってもらっていいよね。今は何が欲しいの?」といった具合に。
それら卑しげな質問に、僕は情けない気持ちになりながらも「顕微鏡です」とか「グローブ……。ビニールのオモチャじゃなくて、本革の」と精一杯の見栄を張って答えていた。

その床屋に、父も通っていたのだ!

僕は日曜日に。父は平日の夕方に。

たぶん、そこで父は、その店主から、息子の見栄とも夢ともつかない話をまた聞きしていたに違いない。そして……

でも、今となっては確認のしようがない。

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33人のピアニスト


40年ほども前の話。
僕が通っていた小学校は私立で、いわゆる“お坊っちゃま・お嬢ちゃま”学校だった。学校全体としては、下は幼稚園から上は大学まで一貫教育をうたっていたのだけれど、僕は小学校の6年間だけをそこで過ごすこととなった。

その学校は音大系ではないにもかかわらず、音楽教育──特にピアノ教育に“間接的に”力を入れていた。
“間接的に”とは、学校の正課としてピアノ教育を設けていたのではなく、生徒が個々にピアノを修得することを奨励していた。したがって、そこに通う子女の多くが幼稚園からピアノを習い、小学校に上がってからも、学校近隣のピアノ教室で個人レッスンを受けていた。

小学校は1学年1クラスで35人。うち31人が幼稚園からの生え抜き。そして残りの4人が新参者で、そのひとりが僕だった。
排他的な学校ではなかったので、生え抜きも新参者もなくみんなすぐ仲良くなれた。みんな本当に仲が良くて、いつも一緒にコロコロと遊んでいた。それだけに、あの、音楽の授業だけは僕にとってつらいものだった。

なにしろ、ほとんどの生徒(生え抜き31人と、新参者のうち2人)がピアノ経験者で──僕にしてみれば、彼ら33人はすでにプロ級のピアニストのように神々しく──授業で生徒がピアノを弾くことはなかったけれども、たとえばソルフェージュ(聴音、初見視唱、リズム打ちなど)では、彼らが難なくこなせることを、僕だけは手こずるだけ手こずって赤面しまくっていた。
まるで、みにくいアヒルの子。

「ピアノさえ習っていれば、こんなつらい思いをしなくてもいいのに!」と悔やみはしたものの、昭和30年代のガキにありがちな「ピアノなんて女のやることだ!」という反発もあって、先生からのピアノレッスンの勧めも拒み続けた。
童話の『みにくいアヒルの子』は最後に逆転ホームランを打つわけだけれど、僕にはそんな晴れ晴れしいことが待ち受けているわけもなく、音楽の授業は毎週毎週ただ拷問のようだった。

学年が上がるにつれ、僕はスッパリ開き直るようになり、みにくいアヒルと言うよりは、カラスのようにふてぶてしく(苦笑)、音楽の授業になるとギャースカギャースカ騒ぐようになった。

4年生の、ある日のこと。
放課後、僕は下校して駅に歩き着いたところで定期を教室に置き忘れたことに気づき、学校に引き返した。
校舎にはすでに人影はなかった。
当直の先生に教室を開けてもらい、定期を身につけ、近道を選んで学校の中庭を横切り、食堂の前を通り過ぎた時だった。夕暮れに沈んだ古ぼけた建物の、窓を開け放ったその中から、ピアノの音がささやかに流れ出していた。
僕はまず舌打ちをしたのを覚えている。「また、ピアノかよ」と。
うんざりのはずなのに、なぜか僕は窓の下へ歩み寄り、そっとのぞき込んだ。どうしてだろう? この学校でピアノの音など珍しいものではないのに。でも、たぶん、その音に惹かれたのだ。

食堂の薄暗がりの向こうでピアノを弾いている男子の背中が見えた。
誰だろう?
薄暗くてよくわからない。
何という曲かもわからない。
彼は、ゆっくりとした曲を静かに弾いていたのだけど、突然動きを止めると、こぶしを振り上げるなり、そのこぶしを鍵盤に振り下ろした。ピアノは「ギャン!」という悲鳴を立て「ザワワーーン」という残響をみなぎらせた。
彼は身をこわばらせている。
静寂……。

彼はまた弾き始める。
そして同じ箇所で、またもや「ギャン!」と鍵盤を叩き、「ザワワーーン」と響き渡る。
また弾き、また「ギャン!」と叩く。
僕の耳には、つつがなく弾けているように思えるのだけれど、きっとミスをしているのだろう。あるいは、気に入らないのだろう。
また「ギャン!」と叩く。
そのたびに僕の目には、彼の背中が「悔しい!」と嘆いているように見える。
「ギャン!」
どうしても、その先に進めない彼の悔しさが、僕に伝わってくる。
「ギャン!」と荒々しく叩いたその指が、次の瞬間、信じられないほど静かに、そしてゆったりとメロディを奏で始める。音がつむぎだす不思議な幸福感に、僕の背中がゾクゾクッとする。しかし、また同じ箇所で「ギャン!」と流れを破壊する。
「ギャン!」
「悔しい!」
彼の背中が発する激しい悔しさが、突然僕を揺さぶった。
わけのわからない感動。
あっという間に、僕の目から涙があふれていた。

食堂の小さなピアニストは苦しんでいた。
たぶん相当な腕前なのであろう、だけど、思うように弾ききれないことに腹を立てている。
ピアノをいたわるだけの余裕のない子供ではあったけれど、それは単なる小学生ではなく確かに“ピアニスト”の気配を漂わせていた。
「ギャン!」「悔しい!」「ギャン!」「悔しい!」……………
その執念のようなものが、食堂の薄暗がりを突っ切って僕を揺さぶった。

僕は窓から離れた。
涙が止まらなかった。
ヒック、ヒックと、肩が引きつっていた。
僕は誰にも見られたくなくて、学校の裏の抜け道から、泣きべそをかきながら駅へ向かった。

食堂の小さなピアニストが誰だか、結局わからなかった。
僕の友だちの33人の中のひとりかもしれないし、同じ学年ではなくて、ひとつ上か、ひとつ下の学年だったかもしれない……。

その後も、僕は相変わらず音楽の授業が大の苦手ではあったけれども、もう騒ぐようなことはしなかった。

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ヤンバルクイナ物語


ヤンバルクイナ国の天然記念物であり、また「絶滅危惧種」として知られるヤンバルクイナ。現在1500〜2000羽くらいしかいないそのヤンバルクイナが、さらに減っている。

主な原因としては、人為的外来種(人間がハブ退治のために持ち込んだマングースや、もとは人間が飼っていたネコの野生化)などに襲われ食べられてしまったり、人間の乱開発による環境破壊が挙げられる。
さらに最近では、道路を横断中のヤンバルクイナが、車にひかれて死ぬことが問題となっている。これも環境破壊のひとつだろう。

上の写真は、偶然にも撮影することができた“ヤンバルクイナの決死の横断”だ(琉球新報・5月17日)。
場所は、沖縄・国頭村安波の県道。親鳥と見られる1羽が、ミミズのようなものをくわえて、駆け足で5メートル余りを横断する瞬間だ。
無事に道路を渡り終えた親クイナは、草むらに隠れ、ヒナを呼ぶ独特の声を発したとのこと。また、その周囲では数羽の鳴き声も確認できたらしい。

僕は、たまにこの写真をじーーーっと見つめては、この親クイナのことを考えていた。
そんなある日、つい最近のことだけれども、居間で寝そべりPC画面の中の親クイナをじーーーっと見つめている僕を、娘がじーーーっと目撃するという出来事があった。

娘「何、見てるの?」
僕「ヤンバルクイナ」
娘「沖縄の?」
僕「そう。絶滅危惧種なんだ」
娘「で、真剣に見ているわけ?」
僕「そう。ヤンバルクイナ、決死の横断」
娘「何、それ?」

僕は娘にヤンバルクイナ物語を語った。
「……で、体長わずか30センチほどのヤンバルクイナにとって、この5メートル余りの道と言ったら、それはそれは気の遠くなるほどの、いわば“死のロード”だ。と言っても、“阪神の夏の遠征”じゃないけどな。(←娘、オヤジギャグがわからず。大滑り) ま…、だから、それほどの危険な所で、車の猛威も恐れず、家族のためにミミズを運ぶ親ってエライだろ? ほら、この写真の、この左の茂みにピーピー鳴いている子どもたちがいるわけだ。そいつらのためには、こんなちっこい鳥なのに、5メートルも何のそのだ。でも、車にひかれて、死んじゃうヤツもいるんだろうなあって。親って、エライんだかバカなんだか……」

娘は「ふーん」と言って、居間を出ていった。

それから数分後、娘はコーヒーとクッキーを持ってきてくれた。

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F氏の独り言


僕の仕事仲間でグラフィックデザイナーのF氏は、独り言のヘビーユーザー(笑)だ。

とは言っても、一日じゅう独り言が口からこぼれているわけではなく、彼が“独り言の人”と化すのは決まってMacの前に座った時、つまりデザインの仕事をしている時、しかも仕事がデッドヒートする夜中……“丑三つ時(うしみつどき)”あたりがいちばんヤバイ。

丑三つ時とは、午前2時半頃のこと。その頃になると、たいていの場合、仕事は詰めの段階に入っていて神経をフル回転しなければならないのだけれど、そんなことはお構いなしにドロドロとした睡魔がしつように襲ってくる。F氏の脳内では緊張と弛緩、覚醒と鈍麻がもつれ合い、神経はのたうち回り、もはや理性による自己抑制が効かなくなってくる。すると彼の、それまで凛々しかった口もとがタランとゆるみ、まるで腹話術の人形のようにパクパクと開閉し始める。

(Macに向かっての)グラフィックデザイナーの仕事を簡単に説明すると、写真やイラストなどの画像素材や、キャッチコピーやボディコピーなどのテキスト素材を、Mac上で組み合わせて(レイアウト)、雑誌広告やらポスターやらを仕上げていく。基本的には、年賀状をパソコンで作るのと同じ要領だけれど、プロの場合は高度なオペレーションが要求される。

さて、F氏の独り言には際立った特徴があって、彼は写真やコピーなどの素材ひとつひとつを、それぞれ「このコ」と呼ぶ。したがって、僕の書いたキャッチコピーが「このコ」なら、ボディコピーも「このコ」、商品写真も「このコ」、イラストも「このコ」なのだ。これは、彼の究極の“デザイン愛”が、素材個々に向けられた結果なのだと思われる。
たとえば、デザインをしていて、最初はキャッチコピーを右上にタテ組みで大きく配置していたところ、どうも気にくわないとなると、彼はデザインを変え始め、それと同時に“独り言”が始まる──

「このコは……、こんなに大きくちゃあいけなくて……、もっと、ちっこく、ちっこくして……、そのかわり、もっと真ん中にズズズズズイーーーーと来たりなんかして……、ついでに……、コトンと横にすると……、意外と存在感があって……、へっへっへ、これで良し、と」

真夜中、シーーーーンと静まり返った仕事場で、僕と彼は互いに背を向けた形で座っている。僕の背後で、ブツブツ、ブツブツと彼の独り言が漂う。マジ相当に気持ちが悪い。長い付き合いなのだけれど、いっこうに慣れない(汗)。

F氏がデザインを全面的に見直している時など、彼の手元でいったい何がおっぱじまったのか、わからなくなる──

「このコは、こっち。このコは、ここ、と……。このコは、もっとコントラストを上げないと……、だと、このコが死んじゃうから、このコはもっと大きく……、あああ、ダメか、このコとこのコは一緒にすると、ほら、キミら、仲が悪いねえ。そうか、このコはあっちだ! どうよ、バッチリじゃないか、へっへっへ……、へっへっへ……、」

これまでにも何回か、彼に注意したことがある。
「夜中の独り言は、怖いし、気持ち悪いから、やめてよ」
そのたびに彼は、スッキリと澄みきったまなざしを僕に向け、言うのだ。
「誓ってもいいけど、オレは独り言など、ぜーーーーーーーったいに言ってないからね!」

F氏、もうすぐ50歳。たぶん、独り言は一生なおらないだろう(苦笑)。

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わが家の『ちびくろ・さんぼ』物語


ちびくろ・さんぼ
先日、荒井良二さんという絵本画家が、日本人で初めてアストリッド・リンドグレーン記念文学賞を受賞したことを書いた。
その際、僕は「たまには絵本でも読んでみようかな」と思い立ち、押し入れの奥の奥から段ボール箱を引っぱり出し、その段ボール箱の底の底から、かつて娘が愛用した絵本をいくつか発掘した。

『ぐりとぐら』(中川李枝子/大村百合子)、『100万回生きたねこ』(佐野洋子)、『ごんぎつね』(新美南吉・作/黒井健・絵 )……などなど、娘の成長に応じて活躍してくれた絵本たち。
その一冊一冊が、「やあ、久しぶり!」と話しかけてくるような、親しみと懐かしさに包まれて僕の目の前に現れた。中でも、僕たち夫婦が特に忘れられない一冊が『ちびくろ・さんぼ』だ。

『ちびくろ・さんぼ』は、1953年に岩波版が出版されて以来、愛読者が絶えることなくロングセラーを誇ってきた。ところが、「アメリカでは“さんぼ”は黒人への差別用語」との指摘を受け、岩波版は88年に絶版となった。さらに90年代にかけて他の出版社も『ちびくろ・さんぼ』を絶版とした、といういきさつがある。

さて、僕の娘は89年生まれであるから、当時、本屋さんはもとより図書館にも岩波版『ちびくろ・さんぼ』はないという時代にあった。
このことを悲しんだのが妻だった。妻も『ちびくろ・さんぼ』に育てられたひとりで、あのバターになってしまうトラたちの場面に目を輝かせて成長していったのだ。「できたら、あの本を娘に読んであげたい」妻はそう言うのだった。

ある日、とびきりの笑顔で妻が家に帰ってきた。手には岩波版『ちびくろ・さんぼ』。見ると、それは新宿区立中央図書館の所有印が押されていて、さらにその印の上に「廃棄」という2文字が押印されている。
じつは、廃棄されたその本を友だちが手に入れ、それを借りてきたのだ。そして妻は「絵本は、何度も何度も子供に読んであげるものだから、ぜひこれと同じものを作って、わが家に『ちびくろ・さんぼ』を置きたい」と言う。僕も賛成だった。

当時はまだカラーコピー機など普及していない時代だったので、いろいろ考えたすえに、表紙は黄色い厚紙に(黒で)コピーをし、中ページは白い紙にコピーをし、トラやバターを黄色く塗ったりした。また第2話では、ちびくろ・さんぼの弟たち“ちびくろ・うーふ”の赤い帯、“ちびくろ・むーふ”の青い帯を、それぞれの色で塗り分けたりした(でないと、うーふもむーふも一緒になってしまうから)。

上の写真は、左が黄色い紙で作った表紙部分、右が表紙をめくった最初のページ部分。写真が鮮明でないのでわかりにくいのだけれど、右の写真の左下に「廃棄」印が押されている。
この本自体は、岩波85年版で、86年に図書として購入され、その後(おそらく88年に)廃棄されたものと思われる。それを90年代前半に、僕たち夫婦がコピーしたわけだ。

僕たち夫婦は、この本を娘に読み聞かせながら「“発禁本”を娘にあてがうワル夫婦」などと言って、苦笑していた。

今年4月、この岩波版『ちびくろ・さんぼ』が、約20年ぶりに瑞雲舎から、ほとんど内容を変えずに復刊された。読者からは、おおむね好評を博しているようだ。
瑞雲舎の井上富雄社長は「創作の経緯などを調べて差別性はないと判断した」として、9月にも続編を出版する予定らしい。また井上氏は「問題を考えるためにも、出版の自由において本は残すべきだ」としている。

とりあえずは、「おかえりなさい、ちびくろ・さんぼ」と僕は言いたい。


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謎のピアニスト「ピアノマン」で思い出したこと


世界じゅうを騒がせている、英国の“ピアノマン事件”のゆくえを見守りながら、僕は、僕の身近でもこのような事件がかつて起こりかけた(?)ことを思い出した。
前もって申し上げておくと、この話はじつにくだらない内容なので、先を急ぐ方は、ただちにほかの記事へ移行されたほうがいいかもしれない(笑)。

ほんとに他愛もない話なのだ。
今から30年も前のことだ。僕の友人Aは、夏休みもそろそろ終わろうとするその日、東京近郊のある寺の墓地修復工事のバイトに汗を流していた。
仕事が終わると、ほかの職人たちとはその場で別れ、こっそり墓地に引き返した。そして、そこに供えてあったワンカップ酒をくすね、グイッと飲み干し、蒸し暑さから逃げるように境内の涼しい物陰に隠れると、すぐさま眠り込んでしまった。

友だちの話によると、学生にはつらすぎる肉体労働が数日続き、とにかく疲労困憊。あの時は一刻も早く体を伸ばして眠りたかったそうだ。酒は寝酒ということになろうか。

完全に眠り込んでしまった彼は、深夜近くになってようやく犬の遠吠えと身の寒さで目を覚ますと、あわてて最寄りの駅へ駆け込んだ。かろうじて終電に間に合った。
車中、冷えきった体がほぐれてくると、シートのやわらかさもあってふたたび疲れが噴き出し、またもや爆睡。結局寝過ごして、とんでもなく方向違いの終着駅で駅員に起こされた。

深夜のその駅で放り出されると、もう手の打ちようがなかった。歩ける距離ではないし、歩こうという気力もない。タクシーなんてとんでもない。せっかくのバイト代が吹っ飛んでしまう。かといって、その場で野宿するのもイヤだ。
どうしても帰りたいと思った。
そこで彼は駅周辺を物色した。自転車が路上に落ちていないだろうか、落ちていたら拾おうか、と。(←違うぞ、それは〈笑〉) で、運良く路肩に落ちていた、と彼は思った。(←違う、違う〈笑〉)
鍵は壊れていた。と、彼は言う。(←これも違う〈笑〉)

乗った。
走った。
そして、すぐに捕まった。
警官2人に前方をさえぎられた。
その瞬間、彼の脳のスクリーンに、仏様の酒を盗み飲みしている自分の姿がフラッシュバックした。
バチが当たった!と思った。
これはきっとマガマガしい事態になると思わずにはいられなかった。
自分の名前が新聞に出るのでないかという、大げさで突飛な思いに襲われた。
「名前を言っちゃいけない! 言うと大変なことになる!」
その誇大な恐怖心が、彼に思いもよらぬアイデアを思いつかせた。

そうだ、記憶喪失になろう! それしかない!

自転車の脇に棒立ちになっている彼は、2人の警官の質問に、思いっきりうつろな目をして「ここ〜〜、どこですか〜〜。わかりません〜〜、自分〜〜」と記憶喪失を装ったのだ。
あの“若人あきら(改め我修院達也)記憶喪失事件”より、はるか昔の話だ。
その場で解決不能と判断した警官たちは、彼を駅前の交番に同行。

交番内で彼は改めて職質を受けるのだけれど、意味不明なことを口走ることに徹する。(この時点になると、こんなことをやっていても自分の窮地は打開できない、ということに気づき始めるのだけれど、彼としてはもう突っ走るしかない)
彼はそれまで「誰〜〜。何〜〜。どこ〜〜」みたいなことを繰り返していたのだけれど、作戦を変更してぷっつり黙りこくることにした。何も喋らず視線の定まらない彼に対し、打つ手が見つからないのか、2人の警察官は質問をやめると互いの耳元にひそひそ話をするようになった。

しばらくすると、ひとりの警察官が言った。
「何かの病気かもしれないから、我々で処理するような問題ではないようだ。とにかく医者に来てもらったほうがいいな」
警官ではなく医者なら逃げ出す隙があるかもしれないと思ったAは、ややほっとした。

医者を提案した警官が、「病院の電話番号は……」とつぶやきながらノートをめくる。
ちょっと、空気がやわらぐ。
その時、もう1人の警官が微笑みながらAに向かって、まるで友だちにでも話しかけるように親しげに言った。
「あ、ところで、知ってる? きょうさあ、王さんがついにホームランの世界記録だよ!」
「え! とうとう打ったんですか!」
と答えたのが、記憶喪失のはずのAだった。
昭和52年9月3日(正確には4日未明)の出来事だった。

その後彼は、自転車盗難に関して所定の処理をされはしたけれど、それ以上の詐病行為(?)等に関しては咎められなかった。
その2人の警官は、彼をまんまとハメたことにえらく満足していたようでもあったし、彼の、その後の素直さを認めて酌量してくれたようでもあった、らしい。

何と言っても、その警官2人が大の巨人ファンで、王貞治によるホームラン756号世界新記録達成の夜を、なるべく気持ちよく過ごしたいという気持ちも働いたようだ。

かくして友人Aは、その夜交番の片隅で仮眠を許され、数時間後の始発電車で家路についたのだった。

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友と古生物と酒の夜


僕の友だちで、学生時代に古生物を研究していた男がいる。
彼とは時々飲むのだけれど、そのことについて深く聞くこともなく最近に至っていた。ところがつい先日、彼の学生時代の武勇伝を聞いているうちに古生物の話へと及び、ついには地球の過去を延々と聞かされるハメとなった。

とにかくワケがわからない。白亜紀のアンモナイトがどーのこーの、デボン紀の三葉虫があーしたこーした、シルル紀まではあーたらこーたらだけど、カンブリア紀までさかのぼるとあーでもないこーでもない……

話についていけない。といって地蔵みたいに黙して座っているだけでは失礼だと思うから、酒を飲む合間に「なーるほど」「ほお〜」「あれま」とか何とか相づちを打っていたのだけれど、それだけでは相手も物足りないだろうと気を利かせて、僕は思いつくままに質問をした。

「ところで、縄文時代から弥生時代へと変遷した経緯について、お前はどう考えてるの?」

すると、彼は「え?」という表情をして、しばらく僕を見つめていたのだけれど、いきなり気色ばんで言い放った。

「そんな最近のこと知るわけねーだろ!」

僕がぽかんとしていると、彼はあきれ顔で説明してくれた。そもそも古生物というのは1億年以上も前の出来事を扱っているのであって、それに比べれば、たかだか2千年ほど前のことなんていうのは「最近」のことで、彼の眼中にはないのだそうだ。
2千年の5万倍のはるか昔が1億年で、あの恐竜天国のジュラ紀あたりですでに2億年前なのだから、確かに比べようもないほどの隔たりがある。
縄文・弥生時代どころか人類の登場さえ、古生物を研究する者にとっては「最近」なのだそうだ。

説明し終わった彼は、芋焼酎のお湯割りをぐいっと飲み干すと、飲み屋の小汚い天井を斜めに見上げた。その視線は、遠くの遠くの遠くを見つめているような感じで、まるで数億年前の地球の真実を見極めようとしているかのようだった。

数億年前に魅了され、縄文・弥生時代を「そんな最近のこと知るわけねーだろ!」と啖呵を切る彼に、僕は思わず──

「この男、大物!」

──と感心してしまい、酔いどれた自分を彼に差し向けると「いまオレは〜〜、モーゼンと〜〜、お前と握手がしたいぞ〜〜〜」と迫っていた。(←はたから見ると、ただの酔っぱらい2人組〈笑〉)

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電子ビーム


つい今しがた、ネットでニュースをあれこれ見ていたら、遊びに来ていた母親が近寄ってきて、背後から画面をのぞき込んできた。
母親はインターネットにまったく縁のない生活をしているため、よっぽど物珍しいのか、僕を押しのけるようにして画面に顔を近づけてくる。

「何を見ているの?」
「ニュースだよ。新聞記事の電子版てとこかな」
「電子版……」
「そう、電子ニュース。あ、画面にあまり顔を近づけると、電子ビームで肌荒れするから、もっと離れたほうがいいよ」
「電子ビーム!?」
「マスコミはそのことを隠しているけれどね。業界じゃあ、もうバレバレ。電子ビームがコラーゲンを破壊するわけだ」
「あなたは平気なの? ずいぶん顔を近づけて見ているけれど……」
「平気。パソコンに向かう前に、卵の白身を顔と手の甲に塗るのね。すると、電子ビームに含まれているマクラフリンという超微粒子が阻止できるわけ。それでOK、万事OK」

その時すでに、母は2メートルほど後方に退いていた。

数日間は、このまま母を隔離しておこう。

いつも僕を楽しませてくれる母上殿、いつも本当にありがとう。

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2005年07月25日

弁当があれば……


ピクニックとは何か?

僕なりに定義すると──
「ピクニックとは、周囲に売店や飲食店がない“自然”の中に出かけ、持っていった手づくり弁当を食べること」
ということになる。

だから、人工物に囲まれた遊園地などは厳密にはピクニックの対象地ではないし、また、かりに自然に恵まれた場所でも、そばに屋台などが出ていて、そこで買い求めた焼きそばなどを頬ばっているようでは“ピクニック”とは呼びがたい。

だから、ピクニックで大事なことは、「どこへ行くか?」であるとともに「どんな弁当をたずさえるか?」なのだ。
ということで、若い頃の僕は、ピクニックに行こうとすれば、おのずからひとつの現実に直面しなければならなかった。それは、「どんな弁当をたずさえるか?」の前に「誰がその弁当を作るか?」という問題。
そう、あの頃、ピクニックに行きたいと熱望する3人の男子高校生がいた……。

母親に作ってもらうのは照れくさく、カノジョに作ってもらうには、その肝心の“カノジョ”がいない! 自分たちで作るにはあまりにも不器用で、じゃあ、その辺の店で弁当を買えばいいじゃないかと思い直せばいいのだが、「ピクニックは手づくり弁当だもんね!」という身勝手な頑固ぶり。

“カノジョなし”“料理できない”“身勝手で頑固な男だらけ”という僕たちダメンズ・グループ3人は、結局、誰かにカノジョができるまでは「ピクニックを封印する!」という事態に追い込まれた。

で、やがて、晴れて僕にカノジョらしき女友だちができた!
そして、当然のことながら……、僕はカノジョと2人きりでピクニックへ行った。楽しかったの何のって!

ダメンズ・グループはどうしたかって? はあ? 知りませ〜ん。だって、当たり前っしょ? なんで自分の大切なカノジョを、そんな男だらけのピクニックの生け贄にしなくちゃいけないの?

ダメンズ・グループがその日いっきに崩壊したことは言うまでもない。

ところで、小泉首相によって弁当がOKとなった『愛・地球博』は、「自然の叡智(えいち)」というテーマを掲げているけれども、“ピクニック”はできるのだろうか?


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マイ・ベストフレンド 


僕がコピーライターになりたての頃、“ネタ帳”のようなものを作っていて、思いついた言葉や、気のきいた言い回しなどをそれにせっせと書き込んでいた。
じつは、そういうネタ帳が実戦で役に立った試しはなく、結局半年ほどでやめてしまうことになるのだけれど、ともかく最初は一生けんめい記帳していた。

そのネタ帳が最近ひょっこり出てきたので、懐かしくなって1ページ1ページ丹念に読んでいたら、気になるフレーズに目が止まった。それは──

『ふたりは、たたり』

──というものなのだ。
一応「ふ“たり”は、た“たり”」と韻を踏み、語呂を合わせ、コピーメイクをしている。文意は不明。自分で書いておきながら、どうしてこういうフレーズを思いつき、書きとどめたのか、とっさに思い出せない。

で、僕は思いをめぐらせた……
たとえば、その頃つきあっている女性がいて、それが“魔性の女”で、僕は日ごと夜ごとその女と淫欲の限りを尽くし、しまいには心身ともに破綻してしまった……、で、「ふたりは、たたり」という赤裸々な苦悩を書き記したものではないか、と。
当時のことを思い返すまでもなく、そんなオイシイ過去はなく、それどころか当時はコピーライターになったばかりで、恋愛どころではなかった。女の影はなし。

で、僕は当時のことをつぶさに思い返してみた。
……思い当たった。そうだ、あの頃、同じ職場にもう一人同年齢のコピーライター(男)がいた。そいつとはやけにウマがあって、毎晩のように飲みに行っていた。とにかく仲がよく、話も合ったし、飲み方も似ていたし、飲む量も“ザル状態”で、毎晩毎晩毎晩毎晩、ゴールデン街やら新宿2丁目やらを飲み歩いていた。

おかげで、昼間は二人とも死人同然だった。二日酔いで仕事がつらいの何のって。双方ともに「きょうは飲みに行くのはやめような」と声を掛け合うのだが、夜になると二人は飲み屋にいる。そこでコピー談義。
こんなことをしていては死んでしまう、と思いながらも、やめられない……

ま、そんな頃に、僕は自分の悲痛な叫びを、ネタ帳に刻したわけだ。

『ふたりは、たたり』(笑)

あんなに仲良く日々を過ごした友だちは、それ以前もそれ以後も、いない。


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僕vs母vs妻vs娘の雛祭り(ひなまつり)


「ひな人形をいつまでも出しておくと、嫁に行き遅れる」などとよく言う。
たいへん素晴らしい言い伝えだから、僕は信じることにしている(笑)。できたら、僕の娘にはそうであって欲しい。それが本当にかなうんだったら、ひな人形をいつまでも出しておいて常設展示してもいい! で、行き遅れちゃえ! お父さんたちとずっと一緒にいようじゃないか!(←オヤジ爆発!)

ところで、僕の娘のひな人形はかなりデカいので、結局、実家の広い部屋で披露されることになっている。そして、そこへ僕と妻と娘が出張ひな祭りにおもむくのが恒例となっている。
毎年、なごやかにひな祭りはとりおこなわれるのだが、いざ祭りが終わろうとする頃になると、“片づける”こと──つまりは「嫁問題」(←大ゲサ)──への各自の思惑が、ビミョーに交錯する。

僕は「嫁に行き遅れちゃえ!」推進委員だから、当然ながら「ひな壇って1年に1回なんだから、もう少し飾っておけば〜」とノンキを装って提言する。
嫁問題最右翼のバアバは、わが孫娘の未来をおもんぱかって「だめよ! すぐ片づけなくちゃ!」とあわてふためく。
そして妻は「たんなる迷信なんだから〜」と微笑みながら言う。“迷信だから、すぐ片づけなくてもいい”とも“でも、すぐ片づけよう”とも言わない。なかなか巧み! キミはわが家のスイスかよ! 中立かよ! って、いきり立っても仕方がない。

で、とどのつまりは本人の気持ちが大切と、娘に聞こうと思ったのだけど、こと今年に関しては、本人いわく「期末テストで、ひな祭りどころじゃない!」のだそうだ。嗚呼!


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実家の食卓の、その上に


“おふくろの味”についてウダウダ考えていたら、突然、僕の頭の中にホッケがバァ〜ンと浮かんだ。「なるほど、ホッケか」と僕はひとりごとを言いながら、苦笑してしまった……。

母は、いわゆる家庭料理というものはひと通り何でも作る人だ。いまや70歳を超える高齢であるが、手間を惜しむこともなく、また本人に好き嫌いもなく、煮物、焼き物、揚げ物、炒め物、生の物など、さまざまなものを作って食卓を賑わす。
最近は「みのさんが教えてくれた健康料理よ、これ!」と、新種が加わっていることもある。遊びに行った僕と妻と娘は苦笑する。
とにかく母は、フツーの家庭料理をフツーに何でも作り、にこやかに食べる。

そんな母だが、たったひとつダメなものがある。それが、ホッケ。

僕にとってホッケとは、「食べるのに、ほどよくデカい!」ことが嬉しくて、大好きの部類に入る魚である。たとえばサンマなどとくらべると、はるかにボリュームがあって、バクバク喰えるワイルド感がたまらない。

ホッケは北海道が本場らしいが、いまや全国的に認知度の高い魚だと聞いている。少なくとも東京では、ここ2〜30年の間にかなりポピュラーな魚になった。ということは、逆に言えば、それ以前ホッケは東京ではお目にかからなかったのだ。
僕の記憶の限りでは、最初は当時新興の居酒屋チェ−ン店で酒の肴として登場したのが最初だった。つまり、東京の家庭料理にホッケはなく、その居酒屋チェーン店で大々的に東京デビューを飾った──はずだ。

したがって、東京生まれで、しかも居酒屋に行くことのなかった母は、割合と最近までホッケというものに出会わなかったのだ。ところが、ある日、息子夫婦である我々と居酒屋に行く機会があり、そこで初めて実物のホッケにご対面!となったわけだ。

その時の母の第一声「あら、まあ、ワラジのように大きなお魚だこと!」

僕にとって「食べるのに、ほどよくデカい!」ホッケが、母にとっては「ワラジのように大きなお魚!」だったわけだ。この第一印象は、母のホッケ観に大きな影を落とすことになる。その日その居酒屋で、やや引きぎみの母にホッケを食べさせたのだが、「モサモサする」と言って、ひと口で箸を置いてしまった。

その後、北海道出身者にこの時の話をすると、「今は必ずしもそうではないけど、東京で喰うホッケは質が悪いことがあって、確かにモサモサしてマズいのがあるから気をつけて」との忠告。しかし、それも、あとの祭り。

僕は、あの日の“母vsホッケ”の出会いをいまだ悔いている。もうちょっとじょうずに“お見合い”をさせることができれば、“母vsホッケ”にも蜜月期がおとずれたかもしれない。

母は今でもホッケを食べない。食べないし料理をすることもない。したがって、実家の食卓を飾ることもない。
いつでも僕たちを歓迎してくれ、何でも食べることのできる、“おふくろの味”満載のテーブルなのに、ホッケだけはいまだに姿を見せない。

皮肉なことだ。“おふくろの味”を考えていたら、ホッケを思い出してしまった。

僕がもっとじょうずに、もっと本当にうまいホッケを食べさせていたら……。


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稽古の悲劇


僕が高校1年の時のことだから、ずーーーーいぶん昔のこと。友だちにヤスハラというやつがいて柔道部員だった。そいつが放課後に教室の戸口で、友だち2人とたむろしてしゃべっていた。
そこへ、柔道部の先輩(3年)が通りかかった。先輩は通りすぎる時にヤスハラの背中に声をかけた。

「おい、ヤスハラ、稽古は?」

すると、ヤスハラ、背を向けたままわめいた。

「うるせえなあ! 関係ねえよ!」

次の瞬間、ヤスハラはその先輩に投げられていた……。

あのヤスハラは無惨だった。
あの時僕は、ヤスハラと喋っていた2人のうちのひとりだったのだが、その時の話題というのが、同じクラスにいたササノという女の子のことで、ヤスハラがササノとデキているという噂の真相を追求している最中だった。真相の追求というよりは、ま、からかっていたわけだ。

「おまえ、ササノとヤッたんだろ?」

つまり、こんな感じのプリミティブな追求をクドクドしていた。ヤスハラに運がなかったのはササノの名前が「ケイコ」だったことだね。

「よお、ヤスハラァ、おまえ、ケイコとデキてんだろぉ?
なああああ」
「おい、ケイコとよおおおお!」
「うるせええええんだよ!」

そこへ、背後から先輩の声だ。

「おい、ヤスハラ、稽古は?」
「うるせえなあ!関係ねえよ!」
「ぬぁにぃ!」
「あっ…、センパイ」
ドーン……

カワイソだった。

あの時、ヤスハラが柔道部じゃなくて、野球部とかサッカー部だったら、あんなことにはならなかったのに……。「稽古」とはぜったい言わないもんな。


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これだけは、しちゃいけない!

僕がプロポーズしたのは、ずいぶん昔のことになる。
その時のことが、ちょっと大げさに言えば、悪夢のようになってしまっていて、いまでもとても後悔している。
その悪夢……、じつは“忘れられない悪夢”ではなくて“思い出せない悪夢”なんだ。

プロポーズというのは勇気がいる。いままでの恋愛関係を婚姻関係という形に変える不安や期待……。それらが重圧となって、プロポーズしようとする気持ちにのしかかってくる。おまけに日本男児の悪癖で、照れくささも手伝って、その日僕はなかなかプロポーズできないでいた。にもかかわらず、デートは形ばかりどんどん進行している。きょう言わなければ、次も言わない──いや、言えないだろうと僕は感じ、あせりだす。
で、結局、僕はどうしたかというと、酒の力を借りてしまったわけだ。不安や照れから逃れるために……。
彼女はめっぽう酒が強いので、いくらでも僕に付き合ってくれた。僕は相変わらず言えないでいた。
そして最後に、あるバーで飲んだのは覚えている。そこで僕は何か一生けんめい喋っていたのも覚えている。仕事の話や、いま見た映画のことなど、どうでもいいことを……。だが、肝心のプロポーズをしたかどうか……。

翌朝、僕は、自分の部屋の自分のベッドでひとり寝ていた。彼女は自宅に帰ったようだった。で、僕はおそるおそる彼女に電話した。彼女の声はとても明るかった。それに比べて、僕の情けない声。確かこんな会話だった。

僕「きのう、ちゃんと帰れた?」
彼女「なに言ってんの。あなたが送ってくれたんじゃない」
僕「あ、そうだったね」
彼女「覚えてないの? まさか私に言ったことも忘れてる?」
僕「えっ、なにを?」
彼女「スゴイこと言ったでしょ」
ひょっとして、泥酔状態でプロポーズしちまったとか? 
だとしたら、これほど大切なことを覚えてないなんて言えない。
僕「ああ、あれね……」
彼女「じゃ、本気にしちゃっていいのね」
僕「も、もちろんだよ……」

そして、現在となる。彼女は、僕の奥さんになった。
あの時のこと──僕が本当にプロポーズしたのかどうか、いまだに確かめていない。

プロポーズしたのだろうか、しなかったのだろうか。
もしプロポーズしたのなら、いまさらながらではあるけれど、そのことをしっかりと覚えていたかった。人生の大切な記念碑なのだから。
もし、あの時プロポーズをしていなかったのなら……。
僕はいま思っている──あの時、きちんとした言葉で、きちんとした気持ちで彼女にプロポーズしてあげたかった。
きっと、あの時プロポーズがうまくできない僕に替わって、彼女が僕の役目をやることになってしまったのだ。もし、そうだとしたら、そのぶん、いまこそ彼女を幸せにしてあげたいと思う。だけど、そう思えば思うほど、あの時の自分の不甲斐なさを強く感じてしまう。つらい。とても、つらい。

だから、とくに男子には言いたい。

「シラフで、しっかりプロポーズしろよ!」

いつまでも、その日の、その気持ちを、その出来事を、鮮明に覚えておいたほうがいい。
最近は、離婚とか再婚とかよくする時代だけど、初めてのプロポーズというのは、たった1回しかないんだからな。オンリー・ワンだ。だから、しっかりプロポーズしろよ!

さしでがましいことかもしれないけれど、オヤジからの忠告だ。


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