2006年12月07日

言葉拾い:その1


『鳥や植物は、名前を覚えると急に近くなる』

              ──NHK「園芸の時間」柳生真吾  
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2005年12月22日

米国のオンライン辞書で今年最も多く引かれた単語


一般の人間が辞書で言葉を調べるのは、どんなときか。

その言葉の意味がわからないとき。あるいは、あいまいなとき。
と同時に、その言葉の意味を知らないままではやり過ごせないとき──つまり、知らないと周囲の話についていけそうにないときなど、そそくさと調べたりする。

仮に、ある言葉の意味がわからないからと言って、何でもかでも調べるかというと、人は決してそうはせず、「この言葉は“通りすがり”の難語だな」と思うと、聞き流してほったらかしにする。知らなくても困ることはないと判断するからだ。

以上のことを整理すると──
いまはその言葉の意味がわからないけれど、その言葉は、いずれ自分の会話にも登場する可能性があり、ひょっとすると自分もその言葉を使わなければならないと判断したとき、人は辞書を引く。そして、意味がわかり、理解し、覚えれば覚えたで、さっそく使う。

読売新聞(12月21日付)によると、米国の辞書出版社メリアム・ウェブスター社のオンライン辞書で、今年最も多く引かれた単語は「Intergrity」だった。

Intergrity」の意味を知っている人、いらっしゃいます? 
僕はぜんぜん知りませんでした。

記事はこう説明している──
『同社の辞書による定義は「ある規範、特に道徳的または芸術的な価値を固く守ること」。英和辞典は「正直、誠実、完全無欠の状態」などの訳語をあてている。「節操」「人格」「一貫性」といった日本語がぴったりくることもある』とある。

僕の手持ちの辞書には「高潔」「廉直」などという訳語もあった。「a person of intergrity」で「高潔な人」という意味になる。

この言葉が注目された背景を、記事はこう語っている──
『同社によると、参照者が毎年多い単語だが、今年は20万人に達したという。背景にはブッシュ大統領や共和党有力者、メディアの看板記者などの「Intergrity」を問題にする報道が相次いだという事情もありそうだ』

Intergrity」という言葉が使われた背景として、共和党系の政治的意向が働いたり、宗教上のベクトルが合致したことなど、さまざまな要因が考えられそうだけれど、それはそれとして、この言葉がマスコミレベルで幾度となく取り上げられ、それによって人々が“辞書を引く”気になり、ウェブスターの(オンライン)語句検索No.1になったことは興味深い。

少なくともこの僕は、この1年間、友人や知人と「Intergrity」について真剣に話し合った記憶がない。
だからこそ、この記事を読んで、何かハッとするところがあった。

ちなみに、「Intergrity」に次いでオンライン辞書で引かれた語句は、ハリケーン襲来でメディアに頻出した「Refugee」(難民)、3位は中央情報局(CIA)情報漏えい事件で収監された記者の罪名に入っていた「Contempt」(侮辱)だったそうだ。


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2005年11月24日

ウディ・アレンの言葉

ウディ・アレンちょっと古い記事なのだけれど、面白いことが書かれているのでご紹介したい。
10月31日付のロイターから──
『映画監督で俳優のウディ・アレンさんは、今週発売の米誌「バニティ・フェア」に対し、年を重ねるにつれて学んだことはほとんどない、と語った。
12月1日に70歳を迎える同氏は、「年をとると喜びを感じるようになるとか、ある種の知恵がそなわるとか言うが、それは全くのでたらめだ」と述べ、「私は何の知恵も、見識も、円熟も得なかった。今でも全く同じ間違いを繰り返すだろう」と語っている』

ウディ・アレンらしいシニカルなコメントで、受け手がそこから何を感じ取るかは、人それぞれの人生観によるところ大であろうと思う。
ただ、僕としては、彼の言う「私は何の知恵も、見識も、円熟も得なかった」という中にある「私は何の円熟も得なかった」とのコメントには、ある思いを込めて大賛成したい。(原文でどのように言っているかが気になるところではあるが)

何の円熟も得ない」……少なくともこの僕も、確信をもってそう言えてしまうだろう。

話はざっと2千年ほど前の日本にさかのぼる。もう一度、申し上げますぞ。「2千年前」だ。
近年になって古代史研究にめざましい進歩が図られるようになり、それまでの学問的常識がかなり変わりつつあるとは言え、大まかに言えば「縄文時代」が7〜8千年ほど続き、次いで「弥生時代」が数百年ほど続いた。(本当にざっくりとした話の進め方をしてしまうけれど)縄文期に狩猟採集生活をおこなってきた人間は、弥生期に稲作農耕生活を手に入れた。
かつてはこの2つの生活様式を画然と分けて「縄文時代」「弥生時代」と時代区分する傾向があったけれど、今では必ずしもそう明確ではなかったと言われている。

さて、8千年近くも続いた縄文時代が、次の弥生時代ではわずか数百年となり、さらに古墳時代へと変遷している。
現在が西暦2005年だから、その4倍もの「8千年」という時間を(ゆるやかな変化はあったにせよ同質的な文化を)営んでいた縄文期から、突然めいっぱいアクセルを踏み込んだがごとくスピードアップして、8千年の10分の1ほどの「数百年」で弥生期を完結させてしまった日本人。
そのスピードアップの原因として、たとえば「渡来文化の影響」「集落の形成と競争・競合」などなど、さまざまな要因が挙げられる。

それら学説の中のひとつに、僕は「なるほど、そういうこともあったのか!」と目を見開かされたことがあった。じつは、それが冒頭の「円熟」問題へとつながるので、もうしばらく話におつきあい願いたい。

なぜ、人間(日本人)は縄文期から弥生期へのステップアップとともにスピードアップしたのか?
前述したように“狩猟採集”をおこなっていた縄文時代は、当然ながら、食料のある所へ移動しなければならなかった、幸いにも豊饒な土地に恵まれれば移動もわずかで済んだであろうけれど、土地・天候等で苛酷な状況におちいれば途方もない移動を強いられた。
食料を求めての、ロング・ジャーニー(長く苛酷な旅・移動)は一度とは限らない。一生を通して、何度も挑まなければならないかもしれない。そして、そのつど、起こることがある。それは、ロング・ジャーニーに耐えられない者は置き去りにされるということだ。つまり、とくに「年寄りは捨てられる」ことになる。これが、狩猟採集生活の“マナー”だ。(※この時代の「年寄り」って、たぶん40〜50代くらいじゃないかな?)

時代は変わって、弥生期
稲作農耕が普及し、集落が形成され、定住生活が始まった。
苛酷なロング・ジャーニー時代は終わり、「年寄りは捨てられる」というシステムも変わる。
年寄りが生きていけるということは、何を意味しているか。それは、ずばり「知の蓄積の増大」を意味している。たとえば、それまで20〜30代で生活集団を作っていた縄文時代は、世に起こる森羅万象をせいぜい人生30年間の見聞・知識で判断しなければならなかった。ところが、そこに50歳の年寄り(長老)が出現すればどうなるか? 言うまでもなく、30歳のおよそ2倍の経験・見聞・知識をもって対処することができるようになる。
夜空を見て、明日の天候を予測したり、一本の稲の異常から、田畑の危機を救うことも“知識”から成し遂げられるようになる。

まだ本のような記録メディアのない時代にあっては、人間こそが唯一の“メディア”であって、長老ほどそのメディア容量は巨大であり、ゆえに名実ともに「長老」「知恵者」と敬われていたわけだ。
「その村のことで知らぬことなど何ひとつない大長老様」みたいな言い方……、今どきの童話でもあるでしょ? つまり、あれに似たり寄ったりの人間社会が(本当につい最近まで)あった。

ところで、その学者(名前を忘れてしまった)は、稲作農耕=定住社会という安定環境の中で、まさに“生きたメディア”「長老」が出現し、知の蓄積・伝承がおこなわれるようになったため、知の相乗的増加が起こり、弥生時代の急進歩がかなったのだと言っているのである。

人間こそが最大のメディア(情報伝達媒体)だった時代に、やがて文字が加わり、印刷技術とともに本が普及し、さらに時は進み、テレビ・ラジオ・映画といったメディアが誕生した。

そして、インターネットというメディアが登場した。

クリックひとつで、自分の知らない出来事・未知の事柄が何千〜何万と瞬時にディスプレイされる……
そのたびに僕は思う「オレって、ほんとに、ほとんどのことを知らないんだなあ」と。と、同時に「それどころか、毎日毎日、新しいことがどんどん生まれて、ますますわからないことが増えているんだろうなあ」と。ついでながら、その時の僕の心境を言うと、「じつは、とくに何とも思っていない(苦笑)」。悲しくもないし、ことさら辛くもないし、あせりもない。だって、大げさに言えば、インターネットというのは、地球丸ごと相手にしてるんだもの。どうやったって太刀打ちできない。

マイペースで生きるしかないもんね。

さて、やっと、先ほどのウディ・アレンの言葉だ。
「年をとると喜びを感じるようになるとか、ある種の知恵がそなわるとか言うが、それは全くのでたらめだ」
「私は何の知恵も、見識も、円熟も得なかった。今でも全く同じ間違いを繰り返すだろう」

ウディ・アレンは、そのつもりで語ったわけではないだろうけれど、僕には「インターネット時代」という今の地球環境を照らし合わせながら考えたくなる、言葉がいくつもあった。

かつて「長老」という存在が、(限られた空間である)集落などの長(おさ)として、自分の全経験・全知識をもってして「円熟」たる見解をくだしていた時代は、もはや終わった。
なにしろ今や、すべての情報は無限に広がる地球レベルからネットを介して錯綜しつつ飛来してくる。「円熟」たる見解など、皆無に等しい。

「トシとともに、わからないことが増えて、困ったもんだ」などと年長者がボヤくようになったのは、おそらく明治維新あたりからではないかと僕は思っている。人間のエイジングより、変革のエイジングのほうが速くなってしまったからだ。
そして、今は、もっと変革は速い。

だから、僕はいま、思っている。
自分のエイジングをしっかり受けとめ、できる限り頭を活動させ、体を鍛錬し、心を修養し、“トシをとらない”こと。

ウディ・アレンの言葉をもう一度記す。
「年をとると喜びを感じるようになるとか、ある種の知恵がそなわるとか言うが、それは全くのでたらめだ」

僕はいま『ラブ・フォーティ』という連載小説をブログに載せている。
人生の半ばあたりにあたる40歳代をテーマに書いている物語だ。そのタイトルの意味は「汝の40代を愛せよ。そして真に勝利せよ」というものだ。

でも、あと数十年たって、『ラブ・シックスティ』やら『ラブ・エイティ』──若き60代、若き80代とは?──なる趣旨の小説を書いているかもしれないなと、きょうはつくづく思った。

歳をとるのは構わない、でも、老いることのない人生をめざしたい。


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2005年07月26日

ヨットマン・斉藤実さんの言葉


世界最高齢71歳で、単独無寄港世界1周を達成した斉藤実さんへのインタビューを、テレビで見た。
東京・浅草生まれ、ちゃきちゃきの下町っ子の話しぶりが気持ちいい。インタビュアーの質問「あなたにとってヨットとは?」に対し、斉藤さんはこう答えた──

「ヨットは、オレにとって“家”であって“コフィン”だね」

その言葉を聞いた時、思わず目がしらが熱くなってしまった。
“コフィン”とは“棺(ひつぎ)”。斉藤さんにとって、愛艇「酒呑童子(しゅてんどうじ)II」は、生きる場所であって、死する場所だと言う。
71歳という長老の言葉だけに、リアルで、ソウルフルに聞こえてしまった。

斉藤さん、がんばれ!

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僕を励ましてくれる言葉


僕は、自分を励ます言葉というものをいくつか持っている。

その言葉を、机の前に貼っておいたり、手帳の片隅に書き記しておいたりして、気持ちがくじけそうになった時などにちらっと見て、自分の心の栄養にする。
言葉というのは不思議なもので、物理学的に言えば質量ゼロなのに、それが目や耳を通して体に吸い込まれ蓄えられると、とんでもないエネルギーを発揮することがある。

今までいろいろな言葉に励まされてきたのだけれど、その言葉たちにもそれぞれ歴史があって、若い頃は片時も忘れずに心の中で唱えていた言葉が、突然扱いづらいものになってしまったり、それとは逆に、最初はさほど重きを置いていなかった言葉なのに、歳とともに意味を深めるようになったものもある。
たとえば、30代の頃まで僕が復唱していた言葉にこんなのがある──

『急げ。深く急げ。』

20代の半ばにふと思いついた言葉(考え)で、当時の僕を叱咤激励するのにジャストフィットしていた。「日々の暮らしを、思慮深く、根底から味わいながら、突っ走れ!」というような意味合いで、僕はこの言葉をこよなく愛した。
しかし、ある日、バテてしまった(苦笑)。
言葉が、僕を振り回しすぎたのだ。まるでニトログリセリン入りのガソリンを、心というエンジンにぶち込んで、思いっきりアクセルを踏み込んでいたようなものだ。「突っ走る」ことに疲れてしまったのだ。
何かの拍子にガクンと息切れして、ほとんど放心状態。バーンアウト。燃え尽きてしまった。

立ち直るのが大変だった。その時、僕は自分の中の言葉たちを引っかき回して、自分の窮状を救ってくれそうな言葉(考え)を探した。
で、ひとつの言葉に行きついた。

『崩れても倒れるな』

自分で思いついた言葉ながら、じつは自分自身この言葉の意味をすべて理解できていない、という摩訶不思議な状態にある言葉なのだ。しかしながら、この言葉を何度も唱えていると、じわじわと元気になれるのだ、あの時も、そして今もなお。

大枠の意味としては「時には(生きる態勢が)崩れることがあるかもしれないけれど、けっして倒れてはいけない」といった感じでとらえている。
または、生きて行くうえで「時には崩れてもいいじゃないか」と窮状を肯定しているようなニュアンスさえあるような気がする。
あるいは、この言葉の別の面を分析すると「“倒れきる”までは“倒れていない”もんね」という、ふてぶてしいまでの気概さえ秘めているようにも感じられる。

『崩れても倒れるな』

きわめて抽象的な言い回しなので、どうとでも意味がとれるのだけれど、それだけに、ピンチの時はまるでおまじないのように僕を励ましてくれる言葉なのだ。
この言葉を心にたずさえるようになって、もう10年以上になる。

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粋人(すいじん)の心得?


仕事がひと段落した夜12時頃、半身浴でぬくもりつつ、浴槽の中で本をダラダラ読んだりウトウト居眠りしたりするのが、僕の日課となっている。
──と、ここまで書いて、この書き出しをじっと見つめてしまった。

ふむふむ、「夜12時頃」は「夜半」で、「半身浴」はそのままにし、さらに「本をダラダラ読んだりウトウト居眠りしたり」というのはちょいと造語して「半読半睡」と体裁を整えてみようか。
すると「夜半、半身浴、半読半睡」という「半」連なりの言葉となって、なんだか粋人の心得のようなものができたじゃないか!

『夜半、半身浴、半読半睡』

とくに「半読半睡」というくだりが、良い。
いかにも中庸の精神をわきまえていそうで、その実ちゃらんぽらんな有様が、粋の粋たるゆえんを表しているような気がする。(←バカ〈笑〉)

よし! 僕の生活信条を家族に知らしめるためにも、『夜半、半身浴、半読半睡』をぶっとい筆で書きしるして、風呂場の扉にでも貼っておこうか。(←大バカ〈笑〉)

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ユーモアとは


僕が考える「ユーモアとは何か」をひとこと書こうと思う。

『ユーモアとは、“真実”という名の太陽を直視するための、サングラスである』

ちょっとキレイすぎたかな。

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ブラックユーモア


ブラックユーモア小話をつくってみたので、ご賞味ください。
よくある戦争ネタで、シチュエーション違い5本立て、行きますよ!


【その1】

第2次大戦の、ある激戦地。
ひとりの兵隊が重傷を負って倒れている。
そこへ戦友が駆け寄る。

負傷兵「助けてくれ! オレを連れて帰ってくれ!」
戦友「それはできない。おまえのカミさんに言われてるんだ!」


【その2】

ベトナム戦争の、ある激戦地。
ひとりの兵隊が重傷を負って倒れている。
そこへ戦友が駆け寄る。

負傷兵「助けてくれ! オレを連れて帰ってくれ!」
戦友「その頭か? それとも、あっちの体か?」


【その3】

イラク戦争の、ある激戦地。
ひとりの兵隊が重傷を負って倒れている。
そこへ戦友が駆け寄る。

負傷兵「助けてくれ! オレを連れて帰ってくれ!」
戦友「CNNが撮っていたらな」


【その4】

近い将来の、ある戦争の、ある激戦地。
ひとりの兵隊が重傷を負って倒れている。
そこへ戦友が駆け寄る。

負傷兵「助けてくれ! オレを連れて帰ってくれ!」
戦友「まずそのケータイで、オレのネット口座に100万円振り込みな」


【その5】

もう少し遠い将来の、ある戦争の、ある激戦地。
ひとりの兵隊が重傷を負って倒れている。
そこへ戦友が駆け寄る。

負傷兵「助けてくれ! オレを連れて帰ってくれ!」
戦友「ロボットのくせに、ナマイキなんだよ!」


おしまい。

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リアル・ブラックユーモア


19〜20世紀に活躍したイギリスの作家、バーナード・ショーはこんなことを言っている。

『真実は、この世の中でいちばん面白い冗談である』

希代の皮肉屋と言われたショーらしい毒のこもった言葉だけれど、確かにそうだなと思ってしまうことがある。

最近アメリカで「オンライン・ハンティング」というものが物議をかもしている。
場所はテキサス州で、約120ヘクタールの牧場に設置されたビデオカメラとライフルを、自宅のパソコンで遠隔操作することによって、放牧されたシカやヒツジを撃ち殺すという(ネット会員制の)クラブなのだそうだ。

よくもまあ、こういうむごたらしいことを考えつくものだなと驚いてしまったのだけれど、さすがのアメリカ人も(←こういう書き方、失礼かもね〈苦笑〉)たまりかねたのか全米で非難の声が上がっているそうだ。その中で、動物愛護団体が立ち上がるのはよくわかるけれど、狩猟団体までもが「おぞましいゲーム」と猛反発しているということに僕は首をかしげてしまった。

彼ら狩猟団体はどのツラさげて「反対」と言っているのだろう? ナマで狩猟するのはいいけれど、ネット狩猟だからおぞましいというリクツがよくわからない。僕には、どちらも“似た者同士”に見えるのだけれど……。

おっと、とびきりのブラックユーモアを思いついた! こういうのはどうだろう?

ひとりのシカ殺しが、ひとりのシカ殺しに言った。
「パソコンでシカを殺すとは、なんておぞましいヤツなんだ」
すると、言われたシカ殺しが、言い返した。
「おまえこそ、目の前のシカを、よく平気で殺せるな」

バーナード・ショーの『真実は、この世の中でいちばん面白い冗談である』にならえば、『現実は、この世の中でいちばんのブラックユーモアである』ということか。

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2005年07月25日

「ありがとう」の呪縛


あいさつ言葉にはいろいろなものがあるけど、その中のいくつかが、つねに僕の頭を悩ませている。

たとえば「ありがとう」が、そのひとつ。正確には「ありがとう」はいいのだけど、「ありがとうございます」が困る。
何かの場面で「ありがとうございます」と言おうとして、いざ言葉を音にし、のどから口に繰り出す瞬間、“これで正解?”とためらってしまう。そして、その戸惑いが疑問調のイントネーションとなって尻上がりになり、「ありがとうございます?」になり、相手を戸惑わせたりする……

何が僕にとって問題なのかというと、“時制”が気になってしまうのだ。時制とは、簡単に言えば、言葉の現在・未来・過去の扱いだ。「ありがとうございます」に対しては「ありがとうございました」があり、おおざっぱに言って前者が現在形、後者が過去(完了)形となる。
したがって「ありがとうございます」は、今おこなわれている行為や事象に対する謝辞だし、「ありがとうございました」はすでに完了していることに言う。

ということは、たとえば誰かが僕の仕事を手伝ってくれて、その最中なら「ありがとうございます」と声をかけ、終了していたら「ありがとうございました」とねぎらう──となる。
ところが、時として、終了していることに対しても「ありがとうございます」と言うことがある。“言うことがある”なんてもんじゃなくて、言いまくりまくっている。相手の行為が終了しているにもかかわらず、「ありがとうございます」だ。なぜ?

で、僕は考えた。
そして「そうか!」と思い当たった。
「ありがとう」は、相手の行為(進行/終了)に視点を合わせているのではなく、感謝する側に視点を向けているのではないか? つまり、感謝する側が“いま感謝しているんですよ”という意味で「ありがとうございます」と言っているのではないだろうか、と。
ならば合点がいく。相手の手伝いが終了し、そのことに対し、僕は今まさに感謝していて「ありがとうございます」と述べるわけだ。なるほど、これならいい!

僕はちょっと悦に入って、溜飲を下げようと思った……その時、新たな問題が生じていることに気づいた。
じゃあ「ありがとうございました」は何なんだ、と。すでに“感謝の気持ち”が終了しているのか、と。「ありがたいと思ってました。でもネ、それも今は昔」ってことか、と。オレって薄情なヤツなのか、と……。

で……、問題は振り出しに戻ってしまうのだ。
「こんにちは」と「おやすみなさい」はとりあえず問題ない。しかし「おつかれさまです」は「おつかれさまでした」があるから、やはり同じような悩みをはらんでいる。(←悩むなよ、そんなことで<笑>)

この時制問題から解放されるために、「ありがとう!」「おつかれ!」「ありがとちゃ〜ん!」「おつかれちゃ〜ん!」だけで人生を乗り切れるだろうか……?(←だから、悩むなって、そんなことで<笑>)


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