2006年11月30日
連載小説「夜になったら空を見よう」第13話
(最初からお読みになりたい方はこちら→【夜になったら空を見よう 第1話】 )
第12話より続く
「《コ》……」と発声して、息をのみ込んだジェロニモが、「そうか、《コウヅ》……、《店》? いや《屋》だ。《コウヅ屋》だ」と声をはずませた。そして、ふたたび沈黙。さらに火明かりを求める。「数字だ。《4》……。その次の文字がわからないなあ。そのあとは《1000》……《円》……だよ」
オレが指をパチンと鳴らした。
「じゃあ、もしこの値札が靴下のものなら、たぶん《4足1000円》じゃないのか?」
「アハハ、なんか涙が出るほどサラリーマン的だね、スズキさん。たぶん、この靴下は《コウヅ屋》っていう店のバーゲン品で、《4足1000円》なわけだ」
「その値札が貼り付いたままの靴下をはいて働いているオレって、かなり悲しいよな」
「でも」ジェロニモのゆるんだ表情が引き締まった。「それはそうとして、スズキさんを知る手がかりが、また見つかったってことになる」
「コウヅ屋なんて聞いたことないよ」
「たぶん……、奥さんが買ってきたもので……」言いながらジェロニモの表情が心なしか曇った。「だけど、値札をはがすこともなく、無造作に夫のタンスに入れた……?」
オレの胸の底がズキンと揺れた。
「ずいぶん、きついこと言うな」
「単身赴任……。それとも独身かもね。自分で4足1000円の靴下を買っているサラリーマン」
「なんか、ロクな過去じゃないないようだな。記憶喪失のままのほうが幸せなのかも」
オレがそう言った直後だった。「記憶こそ人間だよ」という声が響き、フワッと風のような、いや風よりももっと何か質感のあるものが、オレの右側から吹き寄せ、オレの体を通過していった感じがした。ジェロニモはオレの左側に座っている。
オレはジェロニモを見て言った。
「いま何か言った?」
「何も」
「なんか風のようなものが吹きつけなかった?」
「何も。どうしたの?」
「い、いや、別に、何でもないんだ」
阿久津がオレに話しかけてきたんだ。きっと阿久津が、自分の存在をじかにオレに示してきたんだ。記憶こそ人間……。それがどんなにみじめな記憶でも……。
ジェロニモが声をはずませて言った。
「とにかく手がかりができたんだ。行動開始しなければ!」
「行動開始? 何をするんだよ?」
第14話に続く
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2006年11月28日
連載小説「夜になったら空を見よう」第12話
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第11話より続く
たき火を囲み、ジェロニモがさばいたヘビをむさぼった。油っぽくクセのある味だが、添えた焼きキノコを合わせて食べるとなかなかいける。「醤油があると最高だな」と言うと、「醤油かあ、懐かしいなあ」とジェロニモは微笑み、木の間越しにきらめく夜空を見上げた。細く鋭利なあごが目に入り、少年らしい繊細さがたき火の炎に揺れる。
「家のこととか思い出さないのかい?」と尋ねると、スッと冷えたまなざしに戻り、「小さな幸せ、大きな不幸」とポツリと言って口を閉ざした。どういう意味か、オレにはわからなかった。ただ、ジェロニモの視線が、たき火の炎を越えて、阿久津がいるのであろう空間をうかがっているように感じられた。何か阿久津に遠慮しているような気配。阿久津は死に、阿久津の家族はこわれ、世捨て人となったジェロニモのもとへ阿久津は霊となって現れた。死んだ理由は教えてもらえない。しかし、ちょっとした誤解から、仲のよかった二人のあいだは裂かれたことは事実で、そこから歯車が狂い出し阿久津は死んだとジェロニモは思っているのではないだろうか。
オレは気詰まりな沈黙の中で、勝手な想像を膨らましていたが、それにも疲れ、ふと目に入ったずぶ濡れの靴を脱ぎ、たき火にかざした。湯気が上がり始める。靴下をはいた足からも蒸気が漂っている。すると、それまで黙りこくっていたジェロニモが「何だ、それ?」と独り言のようにつぶやくなり、地面に腰掛けた姿勢から四つん這いになり、たき火を迂回してオレの足もとへ寄ってきた。彼はオレの左足の裏をじっと見つめた。さらに徐々に顔を低くし、足の裏を舐めるように這いつくばって、何かを凝視している。ジェロニモの妙な振る舞いに、オレは体をこわばらせ、ただじっとしているしかなかった。
やっと声が出た。
「どうしたんだよ、ジェロニモ?」
ジェロニモは、答えない。口の中でモゴモゴ言いながら、しきりと頭をかしげている。
「スズキさん、ちょっとその靴下脱いでみて。そっとだよ」
「どうしたんだ?」
「いいから、とにかくそっと脱いで」
ジェロニモの緊迫した表情にオレは気圧され、注意深く左の靴下を脱いだ。湯気を吐く紺色の靴下はまるで生き物のように見え、オレの手からジェロニモの手へと渡された。ジェロニモは靴下をたき火にさらに近づけ、火明かりを頼りに何かを見ている。オレものぞき込んだ。靴下の裏には、小さな値札が貼り付いていた。何か書いてある。しかし、水を吸い、靴の中でこすれ、印字がぼやけて容易に読みとれない。ただ、文字と数字であることはわかる。
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2006年11月25日
連載小説「夜になったら空を見よう」第11話
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第10話より続く
「ということは、どういうことになる?」
「つまり、スズキさんは人殺しではない、ってこと。少なくとも、仮にスズキさんが人を刺しているとしても、その人は生きているってこと」
「じゃあ、オレはここで何をやってるんだ? どうして崖から落ちたんだ? それに……」オレはジャケットの右袖口をつかんだ。「この血痕は何なんだよ? 阿久津くんなら、この血が何かくらいわかるんじゃないのか?」
オレは、五メートルほど右横の空間と前方のジェロニモを交互に見ながら言った。
ジェロニモは阿久津に顔を向けた。
「どうなの? ……あ、そうなんだ。じゃあ、ダメだね」
「何だって? 阿久津くんは何て言ったんだ?」
「霊体の有無はわかるけど、それ以外はよくわからないって」
「それ、どういうこと?」
「だから、その血痕の主は死んではいないんだよ。傷を負って出血したけれども、生きているってこと。だから阿久津は、そいつを霊体としてキャッチできないわけ。だって、死んでいないんだもん。だから死体を熊が引きずり込んだという線もないってことになるね。ひょっとすると、スズキさんはその相手に崖から突き落とされたのかも」ジェロニモは無責任な薄ら笑いを浮かべた。「そいつが何者で、いまどうしているか知りたいなら、むしろ警察とかに頼ったほうがいいかもね。ま、いまのところスズキさんは、可能性としては最悪でも傷害罪って感じじゃないの?」
とにかくジェロニモのテントに戻ることにした。途中、埋め隠した包丁を掘り出した。ジェロニモに預けた。
テントまでの道のりを、つらくも遠くも感じられないほどオレは混乱していた。ジェロニモは、キノコや木の実やヘビや虫などを捕り集めていたが、オレは手伝うこともできず、口をきくこともできないでいた。ただ歩き、ジェロニモに合わせて立ち止まり、また歩いていた。ジェロニモはオレをそっとしておいてくれた。十七歳なのに、オレの気持ちを含め、世界のあらゆることをしっかり見定めているように思えた。対してこのオレは、何もわからない。いままで何をやってきて、これから何をしようとしているのか、まるでわからない。ジェロニモは阿久津とともに、オレに関するいくつかの仮説を立ててはいるが、それだって確証があるわけではない。霊体がどうのこうのと言われても、オレ自身の中が空っぽのようなものなんだから、信じる基準というものがまったく芽生えてこない。何なんだ、オレって?
ジェロニモはこの二年間で自分の中を整理してしまって、《あっちの世界》へ行こうかなと言っている。あの確固たる決意は、後ろ向きの感じがまったくしないし、少なくとも彼自身は前進しているという感触をもっているに違いない。《若き仙人》の到達点がそこなら、それはそれで立派なような気がする。子供たちを失望させているのは大人たちだという彼の怒りは、オレの胸を突き刺すものがある。この大人のオレはいままで何をやってきたんだろう? 彼の言うように、子供を失望させる大人として生きてきたんだろうか。思い出したい! いま、無性に思い出したい! 恥ずかしくて情けない過去であっても、思い出せないことには何もできない。
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2006年11月23日
連載小説「夜になったら空を見よう」第10話
(最初からお読みになりたい方はこちら→【夜になったら空を見よう 第1話】 )
第9話より続く
三十分ほどで雨はやんだ。この程度の雨量で地面がぬかるむことはなかった。森林が長年にわたって培った腐葉土は軽々と水を吸い込み、地下層に排出してしまう。
ジェロニモとオレは、例の崖に向かうことにする。
歩き始めると、水を吸った地面は出来の悪いクッションのようで、フワフワとした感触は、最初は奇妙な心地だが、慣れると何でもない。ただ、疲労は早い。足腰がだるくて仕方がない。ジェロニモは苦にならないらしい。オレは時どきため息をつく。
崖に行きつくまでに何度か休み、ジェロニモの水筒でのどを潤し、途中で採取した野イチゴや木の実をむさぼった。甘いとは言いがたい実ばかりだが、それは都会に出回るお菓子類と比べたらの話で、疲労感のたまった口中には、涙が出るほど甘味をほどこしてくれる。
崖の上に死体のようなものはなかった。
そこは岩場が広がり、縦横十数メートルにわたって極めてなだらかな傾斜となっている。さらにその先はふたたび樹木がまばらに立ち並び、やがて木立の密度が増すにつれ薄暗い森の世界へと変わり、鳥の声などを響かせている。
反対に崖から下方を見渡すと、森がひしめき合うように果てしなく彼方まで広がり、まさに樹の大海をつくっている。崖の直下は広葉樹林の群れが押し寄せ、緑豊かな樹冠が連なり、地面をほとんど見せない。
こんな所から飛び降り自殺するヤツはいねえよな、とジェロニモは独り言のようにつぶやき、振り返ってオレに聞いた。
「何か見覚えのあるようなものは?」
「ない。何も思い出さない」
「仮にここで相手ともみ合ったすえに包丁で刺し殺し、勢いあまってスズキさんが落下したとする。相手は倒れて出血する。事実、スズキさんの手は血まみれだったらしいから、殺人現場には血痕が残っているはずなのに……。早朝の大雨で洗い流されてしまったってことか」
「しかし、死体まで流されてしまうってことはないだろう。さっきオレの落下地点あたりを中心に周辺は見てまわったんだ。何もなかった」
ジェロニモは崖上から眼下に広がる森林のほうを見やり、しばらく考えてから口を開いた。
「死体は、熊が森の中へ引っ張り込んだ、ということは……?」
「なるほど、熊か。それはありうる」
「あるいは、あの森の中でスズキさんは人を殺したのちに、この岩場に出てきた……」
「でも、それは、さっきジェロニモの言ったように、この辺でもみ合いにでもならなければ、オレが崖から下に落ちる理由が無くなるんじゃないの? 森で人を殺し、歩いて岩場に出てきて、下を見て、クッションのようにこんもりと茂った樹の上に投身自殺ってのはヘンだよ」
「じゃあ、もう一度整理するけど、殺しの現場はこの岩場で、相手とスズキさんはもみ合いになったすえに、スズキさんが刺し殺した。スズキさんは勢い余って落下した。死体が見つからないのは、熊が森の中に引きずり込んでしまって見つからない……ということ?」
「ま、そういうことになるのかな」
オレがうなずくのを確かめてから、ジェロニモはオレから五メートほど右に顔を向け、まなざしを険しくした。
「阿久津は、どう思う? あの森のあたりに、そういう霊体のようなものを感じるかい?」
オレは、右側の何もない空間を見つめ、言った。
「おいおい、彼も来てるのかい? なら、最初に言ってくれよ」
ジェロニモは、オレの不平を無視して阿久津をじっと見つめている。そして、うなずいた。
「なるほどね、オレもそんな感じがしてんだ」と言いながら、視線を移動してオレを見つめた。「阿久津の話によると、この辺一帯には、そういう殺されて浮遊している霊はまったく感じられないんだって。ボクも樹海で自殺現場にときどき出会うけど、そういうときって、暑い夏でも鳥肌が全身にビッシリ立つほど寒気を感じるんだ。でも、この辺には何も感じない。ま、ボクのは、ただの人間の勘だから信じなくてもいいけど、阿久津はあっち系の世界の人だから、信じてもいいんじゃないかな」
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2006年11月21日
連載小説「夜になったら空を見よう」第9話
(最初からお読みになりたい方はこちら→【夜になったら空を見よう 第1話】 )
第8話より続く
「スズキさんのことが心配なんだよね。ボクはボクの道が見えているけれど、スズキさんは、正直なところ、自分をどうしたらいいかわからないんでしょ?」
オレは気恥ずかしさを打ち消すように、ジェロニモをにらみつけた。
「で、ジェロニモ様なら、オレを助けられると?」
「たぶん。ボクと阿久津でね。で、それが終わったら……」
「“それが終わったら……”?」
「ボクは、阿久津の所に行こうかなと思っている」
「行くってのは、死……?」
「そう死んでもいいし……。阿久津はその話をすると怒るけどね」
ジェロニモは、阿久津がいる空間をチラッと見やって、悪ぶったような笑いを振りまいた。
「なあ、ジェロニモ……」
オレは聞きたいことが山ほどあった。ジェロニモはそれを察して、オレの言葉をさえぎった。
「ねえ、スズキ課長代理。あんたは、あんた自身のことで目一杯なんだから、まずそれを解決しなよ。この世の中で、トラブルの大半は大人が作っているのに、子供の生き方があーたらこーたら言って首突っ込むのは、大人たちのいちばん悪いクセだよ。誰かの世話をやくんなら、まず自分の世話をやきなよ」
早朝、豪雨が森を襲った。
マシンガンで攻撃を受けているような、騒然とした雨音の中、薄闇が恐怖となってオレにからみついてくるかたわらで、ジェロニモはグッスリ眠り込んだままだった。
穴だらけのテントは、枝葉を縫い落ちてくる雨水にまたたく間に侵(おか)され、やがてテントの底に敷き詰められている干し草はじんめりと水を浮き立たせてきた。「すぐ止むと思ったのに」と不服そうな声を漏らしながら、寝ていたはずのジェロニモが素早く起き上がり、中腰になった。オレはすでにしゃがんで身の処し方に困っていた。ジェロニモは苦笑しながら「たぶん、もうすぐ止むよ」と言うなり、テントから飛び出し、そこら辺では最も大きく樹冠を張り出しているブナの木の下に、雨宿りを求めた。オレもジェロニモに続いた。
阿久津の座っている岩を遠くに眺めながら、ジェロニモが苦笑して言った。
「あいつは、いいなあ。濡れないんだもん。ニコニコしてこっちを見ている。人間って不便だよ。これくらいの雨でジタバタしてるんだもんな」
ジェロニモは、阿久津に向かって手を振った。オレには、岩の上に何も見えていない。
雨は荒くれた。
オレはブナの根もとにたたずみ、ジェロニモが常備食としている干しイモをゆっくりゆっくり噛みほぐし、少しずつのどに送り込んでいた。まずくて、いがらっぽいイモに、オレはむせた。むせると、なぜか笑いがこみ上げてきた。それを無理やり体の中に抑え込む。抑え込むと、入れ替わりに涙が突き上げてきた。オレは涙をこらえた。何が悲しいのかよくわからない。ジェロニモの様子をそっと横目でうかがう。ジェロニモはまるでコンビニの前でたむろしてる高校生のように、無表情に雨を見つめ干しイモを食いちぎっている。食いちぎるたびに、反動で頭が後ろにブレる。その動きに、オレは人の温かみを感じる。オレは心の中で思う「なあ、ジェロニモ、ここが本当にコンビニの前だったら、オレたちはどんな気持ちなんだろうか。なあ、ジェロニモ」
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2006年11月18日
連載小説「夜になったら空を見よう」第8話
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第7話より続く
「そうだよな」とオレが言いかけたときだった。ジェロニモが顔をしかめ、目を尖らせてオレの右手あたりを見つめた。つられてオレも見た。ジェロニモの視線は、オレの右手ではなくて、オレの上着の袖口をとらえていることに気づいた。グレーの袖口が錆色に染まり、肘のほうまで伝うように広がっている。
「それ、血の跡でしょ?」
ジェロニモは何のためらいもなく言った。
オレも即答した。
「そうだよ」
「スズキさん、どこかケガしてるんじゃないの?」
「してない。オレの血じゃない」
「てことは、どういうこと?」
「わからないんだ」
オレは、きのう起こったことをありのまま話すことにした。包丁のこと、血痕のこと、人を殺したかもしれないこと……。
ジェロニモはさして驚いた様子も見せず、小さく二〜三度うなずいた。
「仮にスズキさんが人を殺したとする。でも、殺した相手も覚えていないし、その理由も思い出せず、まったくわからないというのは、満足な結果と言えるの? 手応えないんじゃないの?」言いながら、ジェロニモは真剣な表情を向け、それから目だけわずかに動かして阿久津に同意を求めた。「だよな、阿久津。生きてるってのは、喜びとか悲しみとか怒りとか恨みとかを自覚していて、いろんな気分が体に充満してるから面白いんだよな。お前から見て、それってどうなのよ?」
オレには見えないし聞こえないが、阿久津がジェロニモに答えているようだった。ジェロニモはしきりにうなずいている。それから鼻先でかすかに笑った。
「わかった。おまえって、ほんと、やさしいな。やさしすぎるよ。でも、おまえの考えに賛成だ。そうするよ」ジェロニモの視線がオレの顔に戻ってきた。「スズキさん。とにかく、あした、その崖に行って見ようよ。崖の上とかに死体があれば、間違いなくスズキさんは殺人を犯しているわけだし、その死体を調べれば何か思い出す手がかりがあるかもしれない。いまから行くと、かなりの距離だから途中で夜になって迷う危険性があるから、明日の早朝に出発しよう」
オレはなんだか妙な気分になって笑い出してしまった。
ジェロニモが不思議そうな顔をして見つめている。
「どうしたの、スズキさん?」
「オレたち、いったい何をやってんのかなって。なあ、ジェロニモ。オレは人殺しかもしれなくて、それを調べて、そこに死体があったらどうするわけ? キミには猟銃があるから、場合によってはオレを撃ち殺してジ・エンドかもしれないけれど、それにしても怖いとか危険とかの気分はないの?」
「別に。第一、スズキさんが人殺しだとしても、ここじゃあ、とくに騒ぎ立てるようなことじゃないしね。この辺は、生死の堺があまりはっきりしてないからね。スズキさんも、いずれ阿久津が見えるようになってくるはずだよ。阿久津はいいよ。腹は減らないし、寒くも暑くもないし、眠くもならないし」
オレは冗談めかして言った。
「じゃあ、ジェロニモも死んじゃえばいいんじゃないの?」
「それはそれでいいんだけど、いまはちょっと気になることがあるから、それを片づけないとね」
「《気になること》?」
「ああ」
「何よ?」
ジェロニモのまなざしが、わずかに照れくさそうに揺れた。
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2006年11月16日
連載小説「夜になったら空を見よう」第7話
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第6話より続く
「あのバカ教師が土下座をしている頃には、ボクはもう家出の準備をしていた」
「最初から、ここに来るつもりだったのかい?」
「ほぼ」
「どうして?」
「富士の樹海って、迷い込んだら二度と出られないって言うじゃん。もし本当にそうなら、ここは正真正銘の魔界なわけだし、世界の殺戮と同じ気分になれるかな、って……」
「で、どうだった?」
「二年間この辺を歩き回っているうちに、地形もわかってきて、街や集落にたどりつくための、見えない道もつかめてきたし。二度と出られないって感じではなくなったね。でも……」
「“でも”?」
「魔界には違いないね」
ジェロニモはクッと小さく笑った。
オレは自分の胸苦しさを払うように、言葉を発した。
「ところで……、その友だちとは、その後会ったのかい?」
「会ってるよ。てゆーか、ほら、スズキさんの隣に座ってるもん」
ジェロニモは真顔で、ボクの横の岩の上を指さした。オレは反射的に逆側に身を投げ出した。
ジェロニモが声を立てて笑った。
「スズキさんって、やっぱり課長代理クラスだね。そんなに驚かなくてもいいのに。吉本新喜劇のノリだよ、そのコケ方は」
「驚くに決まってるだろ!」オレは身を立てながら声を荒らげた。「《魔界》だの、《そこに座ってる》だの……」
ジェロニモは視線を落とし、自分の泥だらけの足の甲をさすりながら、サラリと言った。
「でも、本当に、阿久津はそこに座っているんだもん。阿久津の脳挫傷は完治したんだけど、その後、高校に入学して間もなく死んだんだ」
「死んだ? どうして?」
「わからない。一年ほど前に阿久津が突然ここに現れて、《オレ、死んじゃったらしい》て言って、それからそこに座ったまま、ずーーーっといるんだ。毎日いろいろ話はするんだけれど、どうして死んだかは教えてくれないんだ。阿久津って、その、例のボクの友人ね」
「わかりやすく言うと、オレの横にいるのは、阿久津くんの霊ってわけ? オレにはぜんぜん見えないんだけど」
「そういうことになるのかな。ボクは見えるよ」ジェロニモは、オレの隣の空間を見つめて声を発した。「あ、おまえなら、スズキさんの過去がわかるんじゃないの? ……ふーん、ダメなんだ。霊ってそんな程度なの? 情けねえなあ」
ジェロニモは、思いきり気落ちした表情をオレの隣に向け、それからわずかに視線を移動してオレを見つめた。
「スズキさん、やっぱ自分の過去は自分で見つけるしかないんじゃないの?」
ジェロニモは何かの木の根っこを歯でしごくようにかじりながら、オレの反応を待った。
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2006年11月14日
連載小説「夜になったら空を見よう」第6話
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第5話より続く
お茶がわりにただのお湯を飲みながら、ジェロニモは自分のことを話してくれた。彼は、いまの状態を《自分流の引きこもり》なのだと言った。
「家の中で引きこもりする連中とは、次元が違うけどね。あいつらには、どんな形にせよ、何かの形で人間関係がないと生きていけないわけだから。親とか先生なんかとの《関係》を《無関係》のように振る舞うことや、《無関係》を演じることから生まれる息苦しい《関係》とか……、そういう《関係ごっこ》みたいなのって、うんざりなんだよね。人間って、衣食住が足りると《関係ごっこ》しかやることなくなるからね。でしょ? 課長代理のスズキさん?」
「オレ、課長代理になったわけ?」
「うん。鏡を覗き込んでいるとき、スズキさんは自分のことをその程度に値踏みした感じがした」
オレは、窒息しそうな驚きの中でゲラゲラ笑った。ジェロニモは観察するような目で、オレを静かに見つめていた。
オレが静まると、また口を開いた。
「ホームレスは《無関係の関係》をむさぼって、ひきこもりは《関係の無関係》にじゃれついてるってわけ。だから、ボクは正確にはホームレスでもなければ、ひきこもりでもない」
「じゃあ、何なんだい?」
「さあ、何だろう? ただの失踪者? 蒸発? ……うーん、なんだか、イメージ違うなあ」
「冒険家……、いや若き仙人?」
「仙人? あ、いいね、それ。いまはもう、考えることしか楽しみないしね」
ジェロニモは、中学生のとき、担任の先生の、うわっつらな態度が不愉快でたまらなくなり、ある日突然、登校拒否をするようになった。世界じゅうでグチャグチャに殺し合いをくり返していて、いまのところ日本はかろうじてその殺戮圏から免れているにすぎないのに、「思いやりのある人になろう」とか堂々と言われると、いいトシしてこのオッサンは、どこを見すえてものを語っているのだろう、と思うようになった。
ジェロニモとしては、軽い気分転換のつもりだった登校拒否だったが、いつのまにか親はわが子がイジメにあっているのだと決め込んだ。そして、学校へクレームをつけた。《思いやり》の教師は、ジェロニモといちばん仲のいい生徒に容疑をかけた。いつも二人はいっしょにいるだけでなく、なにかにつけては口論をしているように見えたのだ。
「口論とディベイトの見分けもつかないバカなわけよ、その《思いやり》の教師は。親も親だけどね。みんな気が利いててさ」
ジェロニモは苦笑しながら、二年前のことを思い返していた。いちばんの親友は親とともに学校の談話室に連れてこられ、ジェロニモ家族の前でいろいろ問いただされた。ジェロニモと友人だけは、腹の中でゲラゲラ笑いながら事の成り行きを観光気分で眺めていたが、こらえきれなくなったのか友人のほうがわずかに苦笑を漏らしてしまった。その途端、脇にいた彼の父親が息子を手の甲で叩いた。スティール椅子とともに真後ろにひっくり返った友人は、後頭部を強打し、脳挫傷に見舞われ病院送り。
その後、ジェロニモが見舞いに行こうとすると、どちらの両親も決まって「二人が一緒にいると災いのもとになるから」と言うばかりで、「もう、その話はよしましょう」と耳をふさぐ。例の《思いやり》の教師は、そもそも登校拒否という断絶の姿勢がいかに悲劇を生むかを他の生徒に説きつつ「ひとえに私の思いやりのなさが、君たちの心を傷つけてしまった」と教壇で土下座をした、らしい。
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2006年11月11日
連載小説「夜になったら空を見よう」 第5話
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第4話より続く
「ここにはどのくらい棲んでいるの?」
「二年、かな。ねえ、スズキさんは僕の歳が聞きたいんでしょ? サラリーマンって、結局、年齢と階級がいちばん気になるんでしょ?」
ジェロニモの目が意地悪く光る。
自分の過去が思い出せないオレは、はたして本当にサラリーマンだったのかどうかもわからないから、返事に困る。
「かりにオレがサラリーマンじゃないとしても、こんな所で生活している人間のプロフィールは気になるけどな」
そう言い終わったときだった。ジェロニモはちょっと首をかしげ、何か考える表情をつくったかと思った瞬間、肩からかけていた猟銃を手慣れた動きで構え、銃口をオレの胸あたりに向けた。
静かに言った。
「スズキさん、《かりにオレがサラリーマンじゃないとしても》って、どういう意味? スズキさんは、スズキさん。ボクには、どう考えても、フツーの勤め人のクソオヤジにしか見えないわけ。マジに記憶喪失なんだったら、妙な可能性とか考えずに、会話の流れを踏み外さないほうがいいんじゃないの? ボクはいま十七歳……のはずだけど、そんなことはこのテリトリーではどうでもよくて、もっとすっきり本質に迫りたいわけ。もし、ムカつくんなら、ボクから銃を奪い取って、ボクを撃ち殺してもいいよ。そのほうが、見えるものが早く見えてくるんじゃないの? スズキさんが自殺してもいいし」
ジェロニモはあくまで冷静な口調。
オレは小さくうなずいてから、言った。
「わかった。もっと重要なことから言うべきだったよ」
「なあに?」
「腹が減ってんだ」
ジェロニモは無表情でうなずき、テントの口に猟銃を立てかけると、中へ入って行った。オレは猟銃を見つめた。ジェロニモが中から声を張り上げた。
「いまは、イモのようなものとキノコしかないんだけど、それでいいかい? 夜までにはウサギとかヘビとか獲って、ご馳走するよ」
料理と呼べるようなものではなかったが、腹を満たすことはできた。ジェロニモに感謝し、それから、もうひとつオレにとって重要なことを願い出た。鏡のようなものはないか、と。
ジェロニモはテントの中から、赤い花柄の手鏡を持ち出した。
「街に降りていったときに盗んできたんだ。ここに来て一年くらいは自分の顔なんてどうでもよかったんだけど、急に気になってしまってね。ひとりなんだから、どうでもいいことだと思っていたのに……」
言いながらジェロニモはオレに鏡を手渡した。鏡面を自分に向けた。鏡の中の男は、三十代後半と思われる、疲れきって薄汚れた顔をした見知らぬ人物だった。見れば何か思い出すのではないかと思ったが、何も思い出さなかった。
オレと向かい合って地べたに座っているジェロニモが、好奇心を直球で投げてくるようにすかさず尋ねてきた。
「どう? 何か思い出した?」
「いや、何も……。こいつ、誰なんだ?」
「ますます自殺の理由が見つからなくなったね」
ジェロニモの澄んだまなざしを受け、オレの心の中のしこりがさらに膨らんだ。違うんだって。オレは自殺者でなくて他殺者なんだ、きっと。
「オジサンの顔って、やっぱスズキって感じでしょ?」
オレは、ジェロニモの顔と自分の顔を見比べて、妙に納得してしまった。確かにオレはスズキって感じだな。月給もらって、給料日には居酒屋でいつもより多めに飲んで、上司の悪口言っているスズキだ。
「日本じゃポピュラーな名前、スズキさん。決まり!」
ジェロニモは屈託なく笑った。
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連載小説「夜になったら空を見よう」 第4話
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第3話より続く
突然、少年が笑った。
「でも、何も思い出せないんなら、死ぬ理由だってわからないわけだから、オジサン、死なないほうがいいんじゃないの?」
「かりに自殺志願だとしたら、たしかにそのとおりだな。死ぬ理由が無くなっちゃったんだもんな」
少年につきあうようなつもりでオレも笑った。とにかく、何も覚えていないというのは、ひどく気分が悪い。
少年が銃口を下ろして言った。
「ボクのテントに来るかい?」
「テント? いいのか?」
「なんとなくオーケーって気分なんだ、オジサンの場合。それに、オジサンにここで野垂れ死にされるのもいやだし」
「じゃあ世話になる」
「ところでオジサンの名前は?」
「オレの名前は……」苛立った。「さっき言ったじゃないか。何も覚えていないんだって!」
少年はクスクス笑った。
「念のため、ちょっとテストしてみたんだ。芝居してるってことがあるからね。オジサンは本当に覚えていないようだね。スゲエや。ボクの名前は、ジェロニモってことにしといて」
「ジェロニモ? たしかインディアン……、アパッチ族の勇者の名前じゃないか?」
「へええ、よく知ってるね。てゆーか、記憶喪失してないんだ」
「あ、ほんとだ。そう言えば、富士山の樹海だって、ちゃんとわかっている。いったい何を覚えていて、何を忘れてしまっているんだろう?」
「覚えていたいことを覚えていて、忘れたいことを忘れてるんじゃないの?」ジェロニモは笑った。「さて、オジサンは、どんな名前がいい?」
「何がいいだろう? キミ……、ジェロニモが決めてくれないか?」
ジェロニモはしばらく考える目つきを森にさまよわせてから、オレを見つめて言った。
「スズキさん」
「スズキ? キミがジェロニモで、オレはスズキか。ずいぶん平凡だな」
「だって、そんな感じだもん。サラリーマンのスズキさん」
オレは胸のあたりにチリチリするものを感じていたが、いまはこの子にすがるしかないと思った。口もとに作り笑いを浮かべた。すると、すかさずジェロニモは言った。
「やっぱ、サラリーマンだ。それって、愛想笑いってやつでしょ?」
ジェロニモのテントを見て、オレは驚いた。
テントのシートはあちこちが破れていて、補修されてはいるがあまりにも不器用で、さらに蔦(つた)や苔(こけ)がはびこっているため、すでに人間の所有物とは言いがたく、しかも内側から支えるフレームがいびつに折れ曲がっていて、シートを突き破った金属片が容赦なくテントをむしばみ、倒壊の運命が迫っている。都会のホームレスが棲むブルーシート・ハウスのほうが百倍豪勢だ。
ジェロニモは愉快そうに言った。
「カッコいいでしょう! これにくらべれば、街のホームレスなんて貧乏ごっこだよ。甘いんだよ。自分たちじゃ気がついてないだろうけど、あいつらの一番のご馳走は《他人の視線》ってやつね。軽蔑だろうが憐憫だろうが、何でもいいから自分が見られること、自分が晒されていることで、生きてる実感にひたってるわけね。他人にすがって生きている、意気地のないヤツらさ」
長く伸びた髪の毛をうしろで束ね、少年から大人へとさしかかった顔には、栄養を絞り落とした鋭い輪郭と、よく動く唇を囲む薄ひげが目をひく。黒いティーシャツにジーンズのようだが、汗や汚れを吸えるだけ吸ってこわばった布は、《服》と言うより《殻》とか《外皮》のように見える。長いこと自然を踏み続けた裸足は、踏みつける物が何であろうと怖がらない頑強さを漂わせている。
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Posted by love40 at
16:30
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